家紋 気比神宮

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気比氏


 主祭神は伊奢沙別命で、笥飯大神、御食津大神とも称せられ、神代に鎮座された。社伝によると、本宮東北に位置する天筒の峰に霊跡を垂れ境内の聖地に降臨したと伝えられ、今に神籬磐境(ひもろぎのいわさか)の形態を留めている。
 仲哀天皇は即位の始め、気比神社に親謁し、軍事のことにつき祈願。神功皇后は、勅命により妹の玉妃命および武内宿禰を従え、筑紫よりこの地に行啓し、自ら神宮に参拝したという。その後、神功皇后は三韓平定をはたし、皇子誉田別命以下群臣を従えて参拝した。
 文武天皇の大宝二年、勅して神宮を修営し同時に六座の神々を奉斎、爾後、越前国第一の霊社、 北陸無双の大祠として、朝廷をはじめ国司、武家等の崇敬は厚かった。宝亀七年(776)始めて神宮司を置き、 承和六年(839)神祇伯大中臣磯守等を遣わして幣帛を奉り、遣唐使船の無事を祈らしめている。延喜式の制では、 神名帳に「越前国敦賀郡気比神社七座」とあり、七座とも名神大社とされ、祈年の官幣に預かっている。
・束稲も用いているらしい。(右図)
 源平時代には、加賀・能登・越中・越後・佐渡・近江の諸国にわたり、無数の浮免地を有するに至った。

南朝方として活躍

 気比神宮の大宮司家は気比氏を名乗り、鎌倉末期から南北朝期には、武士化していたようで、延元元年(1336)ときの大宮司氏治は後醍醐天皇方に名を列ね、城を金ケ崎に築き社頭に義旗を掲げて、北陸における南朝勢力として活躍した。
 気比神宮大宮司気比氏は、「姓氏家系大辞典」などによれば、大中臣氏の後裔とみえ、系図によって少なからず異同はあるものの、神祇伯大中臣意美麿がその祖とされている。
 さて、延元元年(1336)十月、大宮司氏治は新田義貞・義顕父子が後醍醐天皇の皇太子恒良親王および皇子尊良親王を擁して北陸に下ったとき、その子大宮司太郎斉晴とともにこれを金崎城に迎えたが、やがて足利方の重囲に陥いった。翌二年二月義貞は弟の脇屋義助らとともに城を脱出し、同国杣山に拠る味方と合体して金崎城を救おうとしたが、敵将高師泰の率いる大軍に難渋するうち、城中の武器・食糧がついに尽きて、義顕は切腹、続いて尊良親王も自害し、氏治以下将士もこれに殉じた。
 このとき、斉晴はひそかに恒良親王を小舟に乗せて、越前国蕉木浦に渡らせ、自分は金崎に帰り、父のあとを追って自殺した。
 以来、社領は削減されたが、その後も二十四万石を所領としていた。
 戦国時代に入っては、大宮司家が国主朝倉氏に加担したため、朝倉氏の滅亡とともに社殿も荒廃した。しかし、慶長十九年(1614)福井藩の祖、結城秀康が新たに社殿を造営し、同時に社家八家を復興し、社領として百石を寄進した。
【巴】



■大宮司家気比氏参考系図
   



[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]