家紋 富士山本宮 浅間大社

アイコン
富士氏


 社伝によれば、人皇第七代孝霊天皇の代に富士山が噴火して、猛炎天をこがし電火雲にほとばしり、地雷震動すること間断なく、民は四方に逃散し、国中の荒廃久しきに及んだという。このような民の憂鬱を憐れんだ第十一代垂仁天皇は、その三年に山麓の地に浅間大神を鎮祭して山霊を慰められたと伝えている。
 次いで、第十二代の景行天皇の代、日本武尊が東夷平定の途次、駿河国において野火の災いにあい、富士大神に祈念して迎火を放ち、ついに難を逃れたことから、山宮の地に大神を祭られたという。その後、平城天皇の大同元年(806)、征蝦夷大将軍坂上田村麿が勅を奉じて現在地に壮大な社殿を営み山宮の地から遷し奉ったという。
 以来、代々朝廷の尊崇篤く、延喜の制では名神大社に列し、駿河国一宮と称えられ、以来約一千二百年、全国一千三百余に及ぶ浅間神社の総本宮として仰がれている。  また、武将の崇敬も篤く、源頼朝・実朝、北条義時、足利尊氏、武田信玄・勝頼が社殿を寄進、社殿も造修している。
・浅間神社の紋は八重桜ともいう(右図)

武士として活動

 富士山本宮浅間大社の大宮司家は富士氏で、孝昭天皇の後裔とされる古代豪族和邇部氏の裔になる。 系譜によれば、天平神護期、和邇部宿禰宗人が駿河掾に任じられ、その子豊麻呂は富士郡大領をつとめていることが 知られる。以後、子孫は同地方に勢力をたくわえていったようで、豊麻呂の孫国雄は浅間社祝となっている。 降って時棟が初めて浅間神社の大宮司となった。以後、時棟の子孫が大宮司職を継承している。
南北朝期は武家方の大宮司直時と宮方の大宮司義尊に分かれるということもあった。 直時は建武年間頃に駿河国有度郡下島郷の地頭となり、その孫成時の代に駿河守護今川泰範に従った 泰範は応永七年(1400)、富士浅間宮に対して平宇郷・貫名郷などを寄進している。 以後、富士大宮司家は範忠・義忠・氏親・義元、代々の今川家当主との関係を深めていった。
 富士氏と今川氏の関係は、今川氏が崇敬と保護を寄せるというものであったが、戦国時代になると今川領国の一部に 組み込まれ、今川権力が直接神事にも介入してくるようになった。このころ大宮司家は、 国人領主として今川氏に属し、天文六年(1537)、富士信忠は小泉坊に籠った反乱者を討ち義元から賞されている。
 永禄三年(1560)、今川義元が桶狭間で討たれたのち、あとを継いだ氏真が武将としての資質に欠けるところもあって 今川氏は衰退のカゲを濃くしていった。永禄11年(1568)十二月、武田信玄による駿河侵攻が開始された。 富士氏は今川方として大宮城に籠城し、 庵原郡一帯や駿府周辺が攻略されるなかで武田軍の来攻を数度にわたって防いでいる。 しかし、元亀二年(1571)氏真の命により、今川氏を離れ、武田氏に服属することとなった。 以後、富士氏は武田氏の分国下で、国人領主としての側面を薄め本来の大宮司として活動するようになる。
 こうして、富士氏は戦国期を乗り越え、浅間大社社家として明治維新まで続いた。
【棕櫚団扇】



■大宮司富士氏系図
   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]