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穂高神社
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安曇穂高氏
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穂高神社がいつ創建されたか、記録はないが、平安時代、清和天皇貞観元年二月には従五位上の神階に叙せられ、醍醐天皇の延喜五年に制定された延喜の制では名神大社に列せられている。そして、古くから信濃における大社として、朝廷の尊崇篤く、殖産興業の神と崇められ、信濃国の開発に大功を樹てたと伝えられている。
主神穂高見命は、別名宇津志日金折命(うつくしかなさくのみこと)と称し、海神の御子で神武天皇の
叔父神に当たり、太古此の地に降臨して信濃国の開発に大功を樹られたと伝えられる。延喜の制には
式内名神大社に列し、祈年の国幣に預かりまた神階昇叙のこともあった。
日本アルプスの総鎮守
里宮と奥宮があり、里宮は日本アルプスの総鎮守として、交通安全の守神として信仰を集めている。奥宮は中部山岳国立公園の中心地で、山紫水明の明神池畔に鎮座し、日本アルプスの総鎮守、陸海交通守護、登山安全の神として崇められている。
境内にある「穂高神社略記」によると、神胤安曇族は海神系の宗族として北九州に起こり、海運を司ることで早くから大陸との交渉を持ち、文化の高い氏族として栄えていた。その後豊かな土地を求め、海路日本海を経て富山・新潟方面に上陸、信濃に入り信濃国を安住の地と定め、安曇野を開拓、稲作文化、鉄文化を普及し、奈良時代前『和名類聚翔』には高家郷、八原郷、前科郷、村上郷の四郷からなる安曇郡が成立している。
安曇族は、物部氏、蘇我氏等が台頭する以前の、天皇家直属の軍であり、特に、綿積の神を祖神とする安曇一族率いる海軍は、古代における天皇家の海軍として最強の軍隊であった。外にも、安曇野の治水等の功績があったことは先にも記した通りだ。
降って武家時代に至り、武将大伴氏、仁科氏が安曇地方を領するようになって累代、穂高神社に崇敬の念篤く、式年の造営に際しては下知状を下して安曇六十余郷一円にわたる広範囲に所役を課し、金穀を賦し、神事を斎行して、神社の発展に尽くした。
江戸時代に至っては、全時代を通じて松本藩主の尊崇殊に篤く、天正年間。ときの城主小笠原氏は社領十五石、神宮寺領三石を寄進し、慶長年間には禁制を下し、爾来歴代の藩主は変わることなく社領を安堵し、式年の造営を厳修し、さらに臨時の修造あるいは藩主自ら社参し、祈願している。
穂高神社の社家は綿津見豊玉彦命の子宇都志日金折命、別名穂高見命を祖神とする穂高氏である。
穂高見命の後裔は安曇連、次いで安曇宿禰姓を賜ったと伝える。船麻呂がはじめて穂高大神を科野国に奉斎したといい、貞観三年、その十代の孫永雄が穂高神社禰宜に補されたと系図にある。以後、永雄の子孫が禰宜を務め平安末期に禰宜を務めた則智・則延の兄弟は安曇をもって姓とした。その孫則吉から神主となり、応永七年信濃に起こった大塔合戦ではときの神主安曇将監房則は仁科盛房に従って出陣している。
房則の子知通、孫の政行は穂高姓を名乗り、以後、安曇氏を改めて穂高氏を称して、現在の宮司家も穂高氏という。
【菊】
■社家安曇穂高氏参考系図
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