地名は、単に桜の里と解される。井は居で集落の意。桜井の地名は、大和・河内・三河信濃・甲斐・越後・常陸にあり、姓氏はこれに因む。近畿・中部地方に多い。飛鳥時代に強大な権力を手中にした古代豪族蘇我氏の子孫から、桜井氏が出ている。家紋は「桜」が多い。
■各地の桜井氏の由来 ■大和の桜井氏 当国宇智郡に桜井郷あり、当郡五條に桜井寺あり。旧跡幽考に「桜井寺は、天暦年中 武者所康成の建立にして、天文二十二年鋳造の鐘の銘に委し」と。又、郡山の学者に桜井元成あり。 ■中臣姓 伊勢神宮 祭主の一族にして、中臣氏系譜に「殿村前司 宣衡の子 永信(桜井太郎)と号す」と見ゆ。その子 僧となり、桜井禅師と云う。 ■桜井家 雲上家の一つにして藤原北家水無瀬家より分かれる。水無瀬 兼俊(参議)の末子 兼里の後にして、その子 兼供−氏敦−氏福−供敦−氏全−供秀−供文−供愛−供義−義巧、徳川時代 新家 明治 子爵 ■美作の桜井氏 苫田郡塚谷村 桜井氏は、桜井越中守直豊の後と云う。「この人、足利氏に仕え、岩尾山に於いて戦功あり、大野の地頭職を賜う。後 毛利氏に属し、中村大炊助頼宗の麾下となり、頼宗 岩尾城に移るや、葛下城主たりと。文禄年中、塚谷村に卒す。その子 直喬、塚谷村に住して郷士たり。森侯入国となり、直理、大正吏を命ぜられ、その子 直盛に至り、松平領となり之を継ぐ」と。 又、英田郡川合庄横川村、宮地村庄屋に桜井七郎治あり、先祖は、常陸国立石城主 桜井但馬守福と云う。後 宇喜田家に仕え作州に移る。その子 九郎左衛門なりと云う。 ■河内摂津の桜井氏 当地方の名族なり。文明中、桜井中務丞基佐あり、和歌 連歌に妙を得る。又、後世、河内国石川郡喜志村 山本喜右衛門の二男 甚兵衛、加賀屋と号す。享保十五年より摂津に移り、北島新田、加賀屋新田などを開発す。子孫 桜井を氏とすと。 ■和泉の桜井氏 大島郡上村の名族なり。その竹林中に行基清水あり。 ■丹後但馬の桜井氏 竹野郡竹野神社の長官にこの氏あり。又、但馬伊佐村の名族に有りて、桜井良貞の子 良翰は、舟山と号す。但馬考の著者なり。その養子 篤忠は、東亭と号し、その養子 准温(備前の人、赤松滄洲の養子)は、東門と云い、その子 一太郎は、石門と号す。皆 仙石藩の儒官たり。 ■三河の桜井氏 碧海郡に桜井郷あり。この地名を名乗りしもあらん。後世、牧野氏家臣に桜井将右衛門あり、宝飯郡一色城に拠ると云う。又、額田郡薮田村屋鋪に桜井市左衛門あり。又、設楽郡作手の「木和田城に桜井與右衛門 居守す」と云う。 ■滋野姓 海野の族にして、滋野宗平の後なりと云う。子孫 武蔵荏原郡にあり、新編風土記に「桜井氏(大井村)、海野氏の裔 桜井対馬守の三男 長三郎某の子孫と云い伝うれども、系図、旧記など無ければ定かならず。家に先祖対馬守 十六歳の時 着せしと云う甲冑、及び槍一筋を伝えしが、いつの頃にや 槍は失いしとて、甲冑のみを蔵す」と。 ●左から/桜井桜・大和桜・九曜桜・立ち葵・立ち葵に水 |