藤原氏

藤の付く地名は姓氏と同様に多い。藤は籠など生活用具類に多用され、暮らしの必需品であった。藤の里は全国にあり、藤原の地名も多い。姓氏の正統は、中臣姓藤原氏だ。「大化の改新」に功のあった中臣鎌足が、天智天皇から大和国高市郡藤原里をもらい、藤原の姓も賜わった。以来一千有余年、皇室の藩塀として、朝廷政治の実権を握ってきた氏族は、この藤原氏以外にはない。

■各地の藤原氏の由来

藤原氏
天智紀八年條に「天皇・東宮大皇弟を藤原内大臣の家に遣わし給いて、大織冠と大臣の位とを授け給い、よって姓を賜いて藤原氏と為す。これより以後、通じて藤原内大臣と言う」と。

              ┌武智麿(南家)
  ┌定恵         ├房前(北家)
鎌足┼不比等――――――――┼宇合(式家)
  ├氷上娘(天武女御)  ├麿(京家)
  └五百重娘(天智女御) ├宮子(文武妃・聖武母)
              ├光明子(聖武妃・孝謙母)
              └多比能(橘諸兄室)

■藤原南家
武智麿の後にして、長男豊成は 有名なる中将姫の父にて、右大臣に上る。二男押勝は孝謙天皇の御信任を得、恵美の押勝と云う美名を賜いしが、道鏡と争いて身を滅ぼし、三男乙麿は工藤一族の祖先、子孫 武家として栄ゆ。工藤祐経も曽我兄弟もこの後裔と称す。長男豊成、二男押勝の後は一時大いに栄えしも後世 余り振るわず。
又、三男乙麿の後は武家として有名なるも中央にては栄えず。かくして後世この南家にて、中央に蔓りしは四男巨勢麿の後裔のみ、彼の時平と共に道真を陥れし菅根、琵琶にて有名なる玄上、武勇にて名高き保昌、その弟にて盗賊の頭となりし保輔、博学多才の通憲(信西)、及び熱田大宮司家中興の祖 季範、皆この裔なり。

■藤原北家
房前の後にして、その子に永手、真楯、清河、魚名などありしも、その勢力 到底南家、式家に及ばざりき。真楯の子に内麿、ついで、その子に冬嗣の如き俊才現われしにより、この家始めて起こる。冬嗣は非凡なる人物にて、単にこの流を興せりと云うよりは、藤原氏中興の人と云うを適当とすべし。彼は一族師弟を教育するために勧学院と言う学校を設け、又 一族中の貧乏者を救わんが為に施楽院を復興し、又 奈良に南圓堂を建てて、冥福を祈る。これらの努力は著々功を奏し、一族中より人材続出するに至りしも、又 一方、その子 順子 仁明天皇の後宮に入りて、文徳天皇を生み奉るが如き幸運もありて、その男 良房は 遂に人臣にして、初めて太政大臣に登り、次いで臣下にして摂政となり、続いてその養子基経も摂政となり、後 関白となる。
これより子孫代々摂政関白となり、又 代々の皇后は殆どこの氏から出づることとなり、道長に至って、その絶頂に達す。後に五摂家と言われる 近衛 鷹司 九条二条 一条の五公爵家は、道長 直系の後裔なり。

■藤原式家
宇合の後にして、藤原四家中、初め最も栄えし流にして、宇合の四男 広嗣先ず現われしも、僧 玄坊と争いて敗死す。されどその弟に百川の如き人材現われて、光仁天皇を擁立し奉り、その兄 良継の娘 乙牟漏は桓武天皇の皇后になりて、平城、嵯峨、の二天皇を生み、又 百川の娘は淳和天皇を生み奉れり。
かく人材を出し、且つ三代に渡って皇室の外戚たりし関係より、一時飛ぶ鳥を落とす勢いなりしも、後に北家との競争に敗れて、又 昔日の観なく、ただ地方官として、有名なる吉野や、平将門征伐の大将軍 忠文を出せしと、学者の家として残るのみ。殊に 鎌倉以後は殆ど聞こゆるもの無きに至れり。但し 遠藤氏はこの裔と称す。

■藤原京家
不比等の四男麻呂・左京大夫を兼ぬるにより京家と言う。四家中最も栄えず。従ってこの裔と称する氏は、殆どなし。

  参議兵部卿麻呂┬綱執(参議)
         ├濱成(刑部卿)−豊彦(豊後守)−冬緒(大納言)−灌木(大学助)
         └百能(桓武御宇尚侍)

■大和の藤原氏
鎌足、大和国高市郡藤原第(大原)に在り。興福寺は藤原氏の氏寺、春日神社は氏神なり。又、多武峰 談山神社は 鎌足の廟所なり。

■箸尾氏族
大和国添上郡東市村の藤原城によりし豪族にして、広瀬郡箸尾氏の族類なり。筒井諸記に「広瀬郡箸尾の族、箸尾氏 藤原道順(添上郡藤原村)」とあり。この氏は、この地名を負いしにて、いわゆる藤原氏とは別ならん。

■和泉の藤原氏
僧卜半斎了入は、俗姓 藤原氏にして、日野権大納言内光の次子なり。幼名幸丸と云うと伝えらる。天文十九年、願泉寺を住職となり、同寺を中興す。

■摂津の藤原氏
豊島郡八幡城(細河村伏尾)は、東野山にあり。多田満仲の家臣 藤原仲光、在城し 後に播磨守、在城と伝う。又、矢田部の名族に存し、又、大阪にも多し。

■飛騨の藤原氏
幽討餘録に「上総介藤原忠清の弟を飛騨守景家と為す。その妻、平 内府宗盛の乳母なるが故に、その子 判官景高、兵衛尉影康、三郎景経、四郎景俊、皆 平氏の為に厚遇せらる。治承四年、庁使、鎮守府将軍藤原秀衡 檄に云う、関東諸国挙って源頼朝に帰す。余す所伊賀、伊勢、飛騨、陸奥、出羽あるのみ」と。

■遠江の藤原氏
山香郡小股京丸村は、京人 藤原氏 左衛門佐なる者、臣僕を従いて、蟄居せし地にて、慶長五年、検地、村となす。二十五家ありたりと。

■信濃の藤原氏
桂宮院柱銘に「清心名誉顕末期、大治三年三月、信濃国住、丹波大掾 藤原長重」と見ゆ。又、諏訪志料に「藤原氏 鎌足の裔、光家を祖とす。光家・左近将監、伊賀守、正五位下、(父を忠元と云う)、次は光久・左近将監、丹後守、右馬権守、従四位上蔵人に至る。次は光遠・左馬権介、丹波守、左衛門蔵人、従四位上。康永三年三月三日卒(光久の三男)。次は光春・播磨守、雅楽介、正五位下、左兵衛尉蔵人(光遠の次男)、この人甲信の間に居住す。次は高光、次は弘盛、次は安只、次は景家、次は国長、次は忠清、次は家頼 この人武田家に属し蔵人と云う。次に蔵人高安に至り、仁科家の組下に属し仕う。
武田氏没落の時浪人し、諸所に流浪す。後 その旧友 遠藤但馬守政則、三木主膳重舟と共に諏訪郡に潜む。適々武田家の旧臣土屋惣蔵の妹 諏訪家の重臣小澤主膳の妻となり居ることを伝聞し、その助けにより小川郷の湖畔、砂洲を開墾す、これ当地 藤原苗なり」と。当地のこの氏は、丸に笹竜胆、丸に上り藤などを家紋とす。

■相模の藤原氏
極楽寺建久七年鐘銘に「大住郡の辺に一伽藍あり、極楽寺と名づく。蓋し、曾祖父藤原盛季の福田也。弟子 左兵衛尉有季、先祖の本願を尋ね、当時の興隆を思い遂に修復を致す」と。又、大和吉野蔵王堂 文永元年鐘銘に「大工 鎌倉新大仏鋳師 藤原行恒」とあり。

■武蔵の藤原氏
新編風土記、比企郡玉川壘(玉川郷)條に「ここは龍福寺を開基せし藤原盛吉の居蹟なりと云う。この人 俗名を左京と呼びしと云い伝わるのみ、年代等全て詳かならず。この壘蹟より古鏃など掘り出す事間々あり」と見ゆ。

■上野の藤原氏
利根郡に藤原村あり。阿倍貞任の裔 阿倍三太郎秀貞 この地に在りたりと云う。上野志に「藤原の砦は小田原に属す」と。又、後世 前橋の人 藤原荘助仲導は、儒者にして、酒井侯に仕う。

■秀郷流藤原氏
(平) 将門記に「下野押領使 藤原秀郷」と見ゆ。今 唐澤山神社は この人を祀る、下野国安蘇郡田沼町に鎮座す。諸説あるが、尊卑分脈には「魚名−藤成(伊勢守)−豊澤(下野権守)−村雄(下野大掾)−秀郷(下野守・武蔵守・鎮守府将軍)」と。子孫甚だ多く、奥州藤原、佐藤、首藤、波多野、近藤、武藤、大友、少貮、足利、佐野、小山、結城などは その内の大なるものにして、その支流は挙げて数え難し。

■利仁流藤原氏
北陸の大族にして、子孫 越前、加賀、能登、越中などに充満す。尊卑分脈に「房前−魚名(左大臣)−鷲取−藤嗣−高房−時長(常陸介・鎮守府将軍)−利仁(鎮守府将軍・武蔵守・上野下総介・母は越前国人 秦豊国の娘。海路を飛ぶ、羽ある人の如く、以って神化の人となす。延喜十一年、上野介に任ぜられ、同十二年上総に廷し、同十五年、将軍の宣旨を蒙る)」と載せたり。

■奥州藤原氏
陸奥国亘理郡に在りて、亘理氏と称す。或は本姓亘理氏か。後三年記に「清衡は、亘理の権大夫経清の子なり。経清、貞任に相ぐして討たれし後、武則の太郎武貞、経清の妻をよびて、家衡をば生ませたる」と。

■上総の藤原氏
朝野群載、ェ平二年に「藤原菅根・上総の藻原荘を以って興福寺に寄す」と。又、町村志に「法興寺銅磬、銅鉤器、共に銘識ありて、鉤器には大永四年、願主 藤原胤藤 云々」と。

■下総の藤原氏
貞和五年十一月の宝福寺鐘銘に「大工藤原末政」あり。又、明治十一年、藤原文貞公碑に「北條高時、千葉貞胤をして、公をその村に幽す」と。文貞公とは藤原師賢なり。小御門神社に祀る。

■常陸の藤原氏
天慶二年、藤原惟幾、当国の介となる。将門記に「長官藤原惟幾朝臣」、「常陸介藤原惟幾朝臣 息男為憲」と。工藤、伊東、二階堂の祖なり。又、新治郡土浦城(三浦町西町)は「昔、平将門の関八州を横領するや、藤原玄茂を常陸介に任じて国府に置き、ここに一城を築き、以って常陸、下総の咽喉を塞さがしむ。関東八名城の一なり」と。
又、天暦中、藤原為信 介となり、坂東八国の押領使を兼ねる。また、鹿島永享文書に権案主 藤原助茂など見ゆ。かかる類は他に多し。又、式内稲村神社は「文武帝 慶雲四年、 左兵衛督 藤原富得の経建するところ也(池田村鏡山城主)。この年、三千貫の地を富得に賜い、神王の事を摂行せしむ」と伝う。

■出羽の藤原氏
庄内物語に「昔 源義家、後三年の合戦に武衡家衡 誅伐の時、大泉に陣し、利を得給う。地の利宜しきより、藤原光広にここを賜う。その後 承久二年、平 義時、後鳥羽院を隠岐国へ流し奉る時、光広の三代孫 大膳亮広利、その子 刑部大夫広正を鎌倉へ召し、蝦夷の島へ配流の由、龍峰道程記、王代古遷記にあり」と。又、羽源記には「古え 光衡と云いし人、出羽国司となりて在せしに、羽黒衆徒の反逆により切腹す」と。

■越後の藤原氏
当国藤原とあるは 多く上杉氏なり。上杉は武士に成りし藤原氏の典型なり。居多社観応二年文書に「従五位行民部大輔 藤原朝臣憲顕」とある如き之なり。

■丹波丹後の藤原氏
天田郡の名族にありて、丹波誌に「藤原藤太秀郷、子孫 観音寺村、古え 丹後国尾藤村より来る」と。

■因幡の藤原氏
東作志、吉野郡西栗倉庄影石村條に「この村 影清に因める事多し。按ずるに悪七兵衛影清は上総守忠清の子にして、上総に生まる。七歳にしてその伯父 大日坊を殺すよりして、悪七の名ありと云う。未だ美作に生まる事を聞かず。
想うに西北條郡古川村に景清山宝性寺あり、相伝う、義詮将軍の時代、因州の人 筑後守藤原影清なる人、苫西郡黒川村(今の古川村)を領す。江見、村上などと連年闘う。貞治六年秋 殺され、その母も溺死す。影清の族 風戦居士・一寺を営み影清山宝性寺と号すと云う」と。

■石見の藤原氏
建仁の頃 藤原国兼 守護に補せられ、子孫 御神本(ミカミモト)、益田、三隅、福屋などとして当国に栄ゆ。

■播磨の藤原氏
天平宝字七年の頃、藤原貞国なる人あり。異賊を追伐すと、峰相記、寺社旧記抄などにあり。又、神崎郡香呂村中須賀院出土の天養元年銘、瓦経願文に「この寺は即ち我が朝賢王前一條院の御願寺、鎮護国家の大伽藍なり。昔 祖勘解相公 藤原有国、ならびに従三位 橘徳子、同心合力、殊に忠節を存ず。その息 参議広業、三位資業、当州勅史たるの時 云々」と。

■儒者の藤原氏
江戸初期の儒者に惺窩あり。朱子学派の祖、播磨の人。藤原(冷泉家)定家の十一代の孫、兄を為勝、父を為純と言う。定家は新古今和歌集の撰者として有名。

■美作の藤原氏
笠庭寺記に「英田郡樽原郷(茄子十籠)藤原貞次」見え、後世 英田郡川合庄王子権現鍵取に藤原伝十郎あり。

■菅家族
こけも美作の名族にして、広戸矢櫃城主、菅原正実の孫 広戸善兵衛安英、寛永元年、勝田郡小吉野庄に来たり出雲井氏に頼り、氏を藤原と改むと。子孫 現に藤原氏と云う。

■備前の藤原氏
海東諸国記に「貞吉。丁亥年、使を遣わし来りて観音現像を賀し、書して備前州友津代官 藤原朝臣貞吉と称す」とあり。

■備後の藤原氏
海東諸国記に「光吉。戊子年、使を遣わして来朝し、書して備後州友津代官 藤原朝臣光吉と称す。宗貞国を以って接待を請う」と。

■安芸の藤原氏
伝え云う、藤原伊尹の男 義懐、花山法皇に従いて西国を巡り当国呉の鹿田の里に来る。時に正暦五年春の頃なり。法皇に別れ奉り、この地に住す。その二十七代の孫に塩津城主藤原好清あり、大永の頃、大内氏に仕え氏を賜いて、中塩勘右衛門藤原好清と称すとぞ。その男は、中塩治部左衛門清栄にして、以来、勘右衛門を通称とし、時に治部左衛門、勘助などと称す。
家紋はもと 下り藤を使用せしが、後に その中に唐団扇を入れ、時に丸に唐団扇を用う。また、平原神社を祖霊社とす。又、承久の頃、周防前司 藤原親実、厳島社の祠官となる。

■長門の藤原氏
海東諸国記に「正満。戊子年、使を遣わして来朝し、書して長門州乾珠満珠島代官宮内頭 藤原正満と称す。宗貞国を以って接待を請う」と。正満、当国二宮忌宮神社の神主かと云う。

■紀伊の藤原氏
続風土記、那賀郡池田荘領主條に「東鑑を按ずるにこの地は藤原秀郷朝臣の領となり、子孫世々この地を領す」と。又、宮村の中氏、ェ喜三年の文書に「毛原郷総追補使 藤原為俊」を載せ、又、中世 右馬允 藤原実家 和佐庄を領し、嘉禄中、大納言坊門定能の室 冷泉の局に譲り、局、また之をその娘 大宮局に譲る時、下村 南村を歓喜寺に寄せ、和佐又次郎実村を以って地頭となす。
同寺 延文五年文書に見えたり。又、保安年中、隅田党の中、藤原忠村をして伊都郡隅田八幡宮別当職に補す。子孫連綿たりと。又、在田郡箕島村祇園社は、天文四年、宮崎城主藤原定茲、同 雲秀、改めて造営すと云う。

■淡路の藤原氏
一條院永祚中、藤原兼家の族 藤原成家、当国国司代となり、安覚寺を創立す。又、文明中、藤原親秀あり、子孫 船越氏に滅ぼさる。

■阿波の藤原氏
阿波志に「海部城は一に鞆城と称す。藤原友光 ここに拠る。鞆浦山下に在る者、恐らくはこれならん。天正五年秋、秦 元親、甲浦 埜根 二壘 及び宍倉壘を抜き、遂に来たりてここを抜き、田中長政を守たらしむ」と。

■讃岐の藤原氏
全讃史に「長尾金丸城は、昔、伊予掾藤原純友 この城にかくれる。藤原千常 これを討つ。純友の墓 猶在り。又、大野城は大野村にあり、大野大炊居る。大炊助は中御門中納言藤原家成の四世の胤、大野大夫有高の末葉なり。元暦の時、屋島の役に勲有り、因りて食邑を大野に受け、故に大野を以って氏となす」と。

■桓武帝裔
伊予国の伝説に伊予親王の王子 為世、嵯峨天皇の時、勅して皇子に准ぜられ、藤原姓を賜い、無冠にして五位に叙し、浮穴四郎藤原為世と称すなど云えり

■伊予の藤原氏
忽那島開基の祖、藤原親賢朝臣は右大臣正二位、長治元年薨ずと云う。又、伊予郡谷上山宝珠山(上吾川村字谷上山)は、大洲旧記に「当寺は村上天皇御宇、天暦七年、筑紫領主太宰大貮 藤原朝臣国光公、この表にて海上難風に依りて願望す、たちまち波鎮まる、依って再興す」と。

■筑後の藤原氏
高良社祭神は、藤原大臣保連(連保)と伝えられ、諸社根元記に「高良神は藤原大臣連保なり」と見ゆ。

■肥前の藤原氏
河上社天永三年(1112)文書に藤原朝臣宗明、保安元年(1120)に藤原朝臣為実など早くからこの氏見ゆ。又、下って応仁文明に藤原讃岐守胤明とあるは、大村氏にて、藤原政資とあるは、少貮氏なり。
又、山城の人 藤原重則あり、大村彼杵大黒丸に来住す、又、彼杵郡、天正五年、菅牟田砦に藤原吉茂 戦死と。

■肥後の藤原氏
菊池氏の人は古くより藤原姓と載せ、又、相良文書球磨郡田数領主目録に「人吉庄下司藤原友永、政所藤原高家、地頭藤原季高、(藤原茂綱、藤原真宗)、藤原真家、藤原家基」等を載せたり。

■壱岐の藤原氏
文永の役に当国守護代 藤原兼隆(平内左衛門経高)あり。

■薩摩の藤原氏
建久八年の圖田帳に「権掾藤原朝臣在判」とあり、在廳家弘の事なり。又、「目代右馬允藤原在判」と。在廳道友の事にて、同帳に「高城郡公領時吉十八町、名主在廳道友。薩摩郡公領時吉六十九町、名主在廳道友。甑島上村二十町、本地頭在廳道友。薩摩郡公領是枝九町、名主家弘」等あり。
又、楫宿郡楫宿郷東方村 間水神社は、応仁二年 藤原安次 造立すと 棟札に見ゆ。

■大隅の藤原氏
建久九年御家人交名に「税所C校 藤原篤」を挙ぐ。下って国府郷小浜村、早鈴神社の棟札に「嘉吉二年二月、藤原次平造立」と載せ、又、肝付郡百引郷百引村右牟礼神社 文明十七年十一月の棟札に藤原美作守忠常、菱刈郡田中村諏訪神社 延徳三年四月棟札に「藤原朝臣佐兵衛尉重時 再興」などあり。

■鎮西の藤原氏
当氏にして太宰の権帥、大貮 少貮となりし人は、国史に多く見え、挙げて数え難し。ェ平元年、十二月文書に「従四位上行大貮 藤原朝臣保則」とある如く、記録文書にも多し。殊に平安末期には、中関白(道隆)家の人、数々 帥、貮となり、これより鎮西の豪族その家人となりて、その一族と称するもの多し。

■源姓
五島天文十五年の古碑に「源朝臣藤原安実(或は直か)」とぞ。

■五島の藤原氏
海東諸国記に「五島日島太守藤原朝臣盛」あり、その一字名なるより見れば、これも松浦党の人にて嵯峨源氏か。而して前項の如く藤原氏にして、源姓と称する人のあるより見れば、この藤原氏は、地名等より起こりたる苗字かと考えらる。その他 伝説に、昔、花山院家忠の五男 玄城房尋覚、外族藤原是包の譲りを受け、青方の地を領すと云い、又藤原先生義春など云う人もありたりと。
又、武鑑、五島藩用人にこの氏を載せ、今もこの氏の人甚だ多く、また、二方領荒川村山王権現社々人に藤原氏あり、初代藤原源兵衛正道、二代同 源太夫応行、三代同 源之亟正春、四代同 源之進正晴にして、家紋、丸に五三の桐、丸に藤。初代は鏡形位牌に阿南源兵衛正道とも載せ、摂津兵庫川尻より移住せりと伝えらる。最初代々源の文字を通称の一部に用いるを見れば、源姓藤原氏の一族にて、その伝説を事実とすれば、中興の人(恐らく阿南氏)、兵庫より移り、この氏をまねしものならん。その後の文書に藤原朝臣とある如きは、同名なれば、同姓と思いまねたに過ぎず。

■源藤氏
肥後の豪族にして、海東諸国記に「源藤為房、乙亥年、使いを遣わして来朝し、書して肥後州 藤原為房と称し、歳に一船を遣わす」と見えたり。日向国に源藤と云う地名あり。

藤原氏の情報● 公家の家紋/武門藤原氏略系図



●左から/近衛牡丹・一条下がり藤・二条下がり藤・六条藤