地名は森の近くにある田の意。姓氏は地名によるが、杜は森と同意、盛はこんもり盛り上がって茂った様子から、守は神を守る意からあてられた。森田の地名は、下野・陸奥・越前・筑後などにみられる。森田氏の主流は、下野国那須郡森田村から起こった豪族那須氏族森田氏だ。
■各地の森田氏の由来 ■菊池氏族 菊地森田系図に「武時−武重−武澄(肥後守)−武照(肥後守)−武宗−親介−森田親元(対馬守)−隆親(大和守)−景親(佐渡守)−長親−長芳(慶長五年始めて田主丸町を開き、元和中、馬場瀬祠、及び栄福寺、法林寺などを創建す。菊地経頼、馬場瀬に水神を祭り、これを馬場瀬六明神と言う。この時 今の地に移せしなり、明暦十二年十月六日卒、九十七歳)−芳貞(致仕して菊地に改む、寛文九年卒、八十歳)」と。 ■松浦氏族 肥前の名族にして、波多系図に「源頼光の孫 松浦久の後」とあり。 ■土佐の森田氏 元親記に森田兵左衛門見え、後、詩人に森田良太郎居敬あり。その他 森田民部、森田勘助、森田次郎右衛門など見ゆ。 ■武蔵の森田氏 児玉郡にあり。風土記稿に「本庄宿森田氏。村の名主を勤む。父 安平次、年久しく村のしまりを承り、それなどの事に付いては、奇特の計らい多きを以って、文化十三年七月、公より御褒賞ありて苗字は子孫に及び、帯刀はその身一代お許しあり。今の助左衛門も文化年中 村民 干ばつで苦しみ、年の年貢整わざるを憐れみ、許多の黄金を出して貢ぎ、又、食の事まで助けしを以って、時の御勘定奉行より彼の奇特の行を褒賞せり。一郎左衛門も助左衛門の分家なり。本家と同じ奇特の行いありしを以って苗字帯刀の許しあり」と。 ![]() ●左から/那須扇・那須藤・変わり抱沢瀉 ・三つ花立ち沢瀉 ・抱き茗荷 |