北条氏の三つ鱗紋
鱗紋は魚の鱗を象ったものといわれ、その基本パターンである「三つ鱗」紋
は鎌倉幕府執権として権力を振るった北条氏の家紋として有名である。
北条氏の鱗紋に関して『太平記』には、
むかし、北条時政が江の島弁財天の祠に二十一日間参籠して、子孫の繁栄を祈っていると、その満願の夜の明け方に、
緋の袴をはいた気高い女房が現われて、
『汝は前世に六十六部の法華経を書写し、六十六ケ国に奉納した。その功徳によって汝の子孫は日本を支配し、
栄華を誇ることになろう。しかし、もし非道なことがあれば、たちまち家は滅亡じゃ。
よくよく身を慎まねばならぬぞ』
と告げて、たちまち二十丈もある大蛇となり、海中に姿を消した。そのあとに残った三枚の鱗を時政は
持ち帰って家の紋にしたという。その後、時政は源頼朝の創業を補佐し、子孫は鎌倉幕府の実力者となったとある。
この伝説からみれば、北条氏の鱗紋は大蛇の鱗に象ったものであった。
鎌倉幕府に君臨した北条氏であったが、やがて衰えをみせるようになり、元弘のころに至って一つ引き両(竜)の
新田氏、二つ引き両(竜)の足利氏によって滅ぼされた。大蛇の鱗では、龍には勝てなかったというところだろうか。
北条氏滅亡後、三つ鱗の紋は北条氏の後裔を称する横井・平野氏などが伝えた。
戦国時代、小田原を本拠に関八州を支配した後北条氏は、伊勢氏の出身だが、北条氏の家名を相続したことから
三つ鱗を用いるようになった。関東においては、伊勢氏の紋より北条氏の紋の方が重みがあったのである。
横井氏は中先代の乱を起こした北条時行の子孫といい、平野氏は横井氏の分かれといい、ともに北条氏の後裔であった。
その他、飛騨国吉城郡高原郷の領主として一勢力を築いた江馬氏も「三つ鱗」紋を用いた。
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