拾い話
引両紋の悲喜こもごも



 後醍醐天皇に与して鎌倉幕府を打倒、建武の新政権樹立に大功があったのは、鎌倉を陥れた新田義貞と 京の六波羅を落とした足利尊氏であった。ともに清和源氏義国流で、新田氏は義国の嫡男九条院判官代義重を祖とし、 足利氏はその弟で二男の陸奥判官義康の後裔であった。両家は近い一族であったが、 尊氏が後醍醐天皇に叛旗を翻すと、義貞と尊氏とは不倶戴天の敵同士となって覇権を争った。 新田氏の家紋は「一つ引両」、足利氏の家紋は「二つ引両」で、かたや一本線、こなた二本線という まことにシンプルな紋だが、引き両紋の線は竜をあらわしたものという。

二つ引両 大中黒 (一つ引両)


 両者の戦いは最終的に新田義貞が敗れさったが、横線ひとつの新田は一匹の竜だから二匹の足利竜に挟み討ちされて 負けたのだといわれた。また、「丸に一つ引両」は鍋蓋に、「二つ引両」は釜の蓋に似ていることから、 江戸時代の川柳に 「鍋ぶたが 沈んで浮かぶ 釜のふた」 というのがある。そのような負のイメージを嫌って「一つ引両」の横一線を太く大きく描いた 「大中黒(おおなかぐろ)紋」が生まれたというが、もとより俗説に過ぎない。
 鎌倉時代、将軍家源氏は白地の陣幕を用い、将軍と同族の新田氏は白地に三本の黒線、 足利氏は白地に二本の黒線模様の陣幕を用いた。 それが、のちに家の紋へと転化したのである。新田氏、足利氏の引き両紋は、陣幕の模様から生まれたものであった。


引き両紋へと転じた陣幕の模様
陣幕は五枚の布を縫い合わせて作られ、「裾濃」「斑濃」といった伝統的な染めがあるが のちには自家の紋を染めて他家との区別化を図るようになった。 足利氏は二番目と四番目の布を黒に、新田氏は上下を白に中の三枚を黒にして縫い合わせた。 遠くから見れば二本線が足利氏、太い黒が新田氏と一目で判別できた。 「三つ引両」を紋に用いた三浦氏の場合、三浦の「三」の文字にかけて 真ん中の布を黄・紫・紅の三色に染め分けた幕を用いた。まことにカラフルなもので、 のちに黒一色の家紋になっても幕の染め方から、三浦氏の「三つ引両」は「黄紫紅(きむらご)」と呼ばれた。



・左から:三浦氏の「黄紫紅(きむらご)」、足利氏の二つ引、新田氏の大中黒(一つ引)


 南北朝時代はじめのエピソードとして、建武二年(1335)二月、 足利尊氏を西国に追い落とした新田義貞は降参した敵兵を引き連れて京へ凱旋した。そのとき、降参した兵たちは それまで笠符に付けていた足利氏の「二つ引両」の二本線の間を黒く塗りつぶして、新田氏の太い横一本線の 「中黒」に直していた。しかし、にわかに黒く塗ったところがひどく目立っておかしかったのか 二筋の 中の白みを 塗り隠し 新田新田(ニタニタ)しげな 笠符かな という落首を記した高札が五条の辻に立てられたという。 吉野に走って南朝をたてた後醍醐天皇に対立して北朝をたて足利幕府を開いた尊氏の「二つ引両」紋は おおいに尊重されるようになり、 さらに足利氏が功のあった家臣に「二つ引両」紋を与えたことから「二つ引両」紋はおおいに世に広まった。 その結果、二つ引両紋は中世の武家らしいイメージを持つ家紋となった。一方、新田氏の大中黒紋はふるわず いまでは少数派に属する家紋となっている。
 新田氏と足利氏の引両紋の明暗は、どのようなことであれ「勝負は勝たねばならぬ」ということを 教えてくれるものである。ちなみに、足利市にある足利銀行の社章は「二つ引両」だという。



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