三浦半島記
・街道をゆく42



 道路標識に、
 「佐原」
 という地名が出ていたのが、なつかしかった。
 曾遊の地というわけではなく、平安時代の関東武士団の苗字の名乗り方の一例として、ときどき佐原姓を思い出すからである。同時に、現存の知名人の佐原姓を連想する。たとえば考古学者の佐原真氏の故郷−−姓としての故郷はここかと思ったりする。
 地名としての佐原は、横須賀市域を流れる平作川ぞいの丘陵にある。
 頼朝が挙兵したころ、この三浦荘(いまの横須賀市域)の長老は、三浦大介義明(1092〜1180)であった。
 ところで、義明の一族がすべて三浦姓を称するのではなかった。
 原則としてそれぞれの所領の地名を苗字にした。たとえば義明の息子のひとりの義連は、佐原を領すると、佐原十郎義連と名乗った。『平家物語』には、かれが頼朝の代官義経の部将のひとりとして、一ノ谷の鵯越の坂落としのとき、「こういう崖は、われわれの三浦のほうでは、ふつうの地形で、いわば三浦の者にとっての馬場のようなものだ」といったという話が出ている。
 もうひとつ例をあげると、三浦義明の嫡孫で、鎌倉武士の代表的な性格をもつとされる和田義盛も、三浦から出ながら、三浦荘のなかの和田郷(いまの横須賀市須軽谷)に住したために、和田小太郎義盛といわれた。
 「佐原(和田)は、わしのものぞ」
 と、雲のなかで、真下の草上の一点を自分の領域だとうたいつづけるヒバリのように、苗字はこの時代の武士たちにとって、所領の誇示でもあった。
 武士団は、その一人一人が、その所領する村落の長だったと考えていい。

 世界史的にいえば、日本史はアジア史に似ず、むしろ封建制の歴史において、西洋史に似ている。
 佐原十郎義連や和田小太郎義盛という十二世紀の人達が、もし十五世紀から十九世紀ごろのドイツに旅行したとしても、いまの日本人よりも、その社会に違和感を感じなかったに相違ない。
 当時のドイツには、佐原・和田のような村落貴族(ユンカー)が多数いた。平素は大農場を経営し、王のためにいざというときには、村内から従卒をひきつれ、戦いに参加した。
 また、佐原・和田は、十六世紀のイギリスに行っても、自分たちと似た階級である紳士(ジェントリー)の社会を訪問するかぎり、礼儀正しさや自負心のつよさ、倫理などにおいて、大差がないことに気づいたにちがいない。
 ユンカーやジェントリー、そして平安末期の武士たちに共通しているのは、領有する地名を名乗っていること、戦陣には領地の若者をひきいてゆくこと、それに家紋をもっていることである。
【出典:三浦半島記 街道をゆく42 司馬遼太郎(朝日文芸文庫)】

●武士と苗(名)字=武家の苗字はこうして発生していった=