神保氏
竪二つ引両
(惟宗姓か?)


 神保氏はその出自に関して諸説があり、惟宗氏・平氏・橘氏の三つが比較的一般に受け入れられているようだ。しかし、されを確定することは困難で、惟宗姓がもっとも妥当であろうと考えられている。
 鎌倉に出て畠山氏に仕え、畠山基国が越中を領するようになり、これに従っ越中に入国した。畠山氏の越中支配は、砺波郡を遊佐氏、新川郡を椎名氏、射水・婦負の二郡を神保氏に支配させるという方式で、遊佐・椎名・神保氏はそれぞれ守護代として実権を握っていった。神保氏は射水郡の放生津を本拠として、畠山氏の執事となった、特に畠山政長の執事となった神保越中守とその子長誠は、政長と家督を争った義就と戦っている。
 応仁の乱では、長誠が国人・土豪層の把握に成功し、畠山氏に代わって政治を執り、将軍足利義材を放生津に迎えたこともあった。長誠の死後、子の慶宗が継いだが同族の慶明と戦い、さらに越後から侵入してきた長尾為景と戦い、ついに1520年、慶宗は討死している。その後は慶宗の子とされる長職が富山城に拠って上杉勢と戦っている。長職は一説に、はじめ水越勝重を称し、のち長職に改めたという。その子光氏を経て氏春(氏張)に至ったとするが、若干の無理があるようだ。
 氏張は、はじめ畠山氏の被官であったが上杉謙信に属し、さらに織田信長に通じて佐々成政の与力となった。 佐々成政に従って、肥後におもむいたが、成政が改易に遭い、浪人。のちに家康に仕え、家は幕臣として続いた。

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■参考略系図