吉見氏
二つ引両
(清和源氏範頼流)


 石見吉見氏は頼行が弘安五年、蒙古襲来の防御のため、能登から西石見に下向したことに始まるとされる。以来、三本松城(津和野城)に拠って、慶長五年広頼が毛利氏の長門退転に従って津和野を離れるまで、三百有余年間、西石見に君臨した。
 吉見氏の遠祖は源範頼で、頼行は能登吉見氏の庶家で、石見吉賀郡の地頭職を得て下向したものである。吉見氏は木部・津和野・吉賀地方の在地領主を被官化しつつ次第に勢力を拡張し、隣接する強豪益田氏と拮抗する有力領主に成長した。
 応仁の乱が起こるや、吉見信頼は西軍の指揮者として上洛する大内政弘に従って出陣した。しかるに、政弘の伯父教幸が大友氏と結んで反乱を起こした際に、信頼は教幸に呼応して兵を挙げたが、これは大内氏に敵対するためではなく、累世にわたる宿敵益田氏を打倒しようとする意図があったからである。結局、教幸・信頼は敗北し、信頼は帰国した大内政弘に降って臣従を誓った。その後、守護代陶氏との対立が表面化し、信頼は政弘の山口館で酒宴のとき、陶弘護と争って彼を刺殺し、信頼も内藤氏の手によって殺された。
 十一代正頼のとき、陶晴賢が大内義隆を弑逆した報を聞くや、義隆の姉を娶っている血縁関係もあって、晴賢討伐の兵を挙げた。陶軍は三本松城を包囲し、五か月にわたる決しの籠城戦となったが、やがて毛利元就が晴賢討伐に参戦し、背後の諸城を落とし、ついに厳島において晴賢を滅ぼした。
 正頼は以後毛利氏の重鎮として各地で軍功を挙げた。長男元頼は朝鮮の役で戦死したため、二男の広長があとを継いだ。しかし、広長は毛利氏の処遇を不服として、たびたび出奔、不穏な行動もあったが、祖父正頼の功と、毛利氏の姻戚関係によって帰参を許された。しかし、彼が輝元毒殺の計画ありとの讒言によって毛利軍の追討を受け、その包囲のなかで三人の男子とともに自刃し、吉見氏は滅亡した。
 ただし、広頼は広長の出奔中に、吉川広家の三男就頼を養子に迎えて、五女とめあわせていたので、就頼が吉見の家系を継ぐことになったが、のちに吉見姓を廃し、毛利氏を称して一門に加えられ、大野毛利氏となった。

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■参考略系図