和智氏
八 卦
(藤原氏秀郷流波多野氏族)


 波多野氏の一族、広沢氏の支流。久寿二年(1155)、源頼朝の兄義平が伯父の義賢を討った武蔵大蔵谷の戦いで、波多野実方が功を立て、武蔵国広沢を賜り広沢姓を名乗ったのにはじまる。建久三年の源平合戦に備前国藤戸の戦いも功をたて、その恩賞として備後国三谷郡十二郷の地頭職を獲得、さらに承久の乱の功で広沢氏は三谷郡全体の支配者となり、広沢惣領家は一族の広沢実村を備後国三谷郡へ派遣して支配をさせた。実村の二人の子がそれぞれ所領を分割相続し、実綱が江田氏を、実成が和智氏をそれぞれ名乗った。
 南北朝期になると和智氏はときには足利方に、ときには南朝方について瀬戸内海地方にまで進出して所領を拡大し、やがて本拠を和智から吉舎に移した。
 戦国期にはいると、備後国の大半ははじめ尼子経久の勢力下におかれ、和智氏も尼子勢に属した。やがて毛利元就が和智氏ら国人衆をまとめてその盟主となり、備後各地で尼子氏と主導権を争って戦い、ついには尼子勢を北へ追放した。和智氏の一族で尼子方についた江田氏は毛利元就によって滅ぼされた。
 毛利元就は弘治元年(1555)、大内氏を滅ぼした陶晴賢を厳島におびきだして破り、ついで永禄九年(1563)には尼子氏の本拠富田月山城を攻略して中国地方の覇者となった。この間の永禄三年、元就の嫡男隆元が山陰遠征に先だって、縁戚関係にあった和智誠春兄弟のい壮行の宴に招かれて、その晩に死亡するということがあった。
 永禄十一年、元就は四国遠征中の和智兄弟を厳島へ呼び返して幽閉してしまった。身に危険を感じた兄弟は、そこを脱出して厳島神社本殿に閉じ篭り、攻めれば神社を焼き払うと抵抗したが、結局翌年に殺されてしまった。これは先の隆元の死が和智兄弟の毒殺によるものと信じた元就が報復したという説があるが、それが正しいとすれば、六年間も放っておいたのは不自然である。
 当時、元就はすでの七十一歳の老齢で、二年前には一時危篤状態になるほどの重病を患った。後継者の孫輝元はまだ幼く、中国地方の覇者になった元就にとって、他の国衆・外様衆との間にどのように主従関係を樹立するかが最大の課題であった。鎌倉時代以来の関東御家人の血筋を誇る和智誠春の死は他の武将へのみせしめのための犠牲であったとみたほうがうなづける。
 このとき、誠春の子元郷は元就に対して、血判をした誓書を出して、毛利氏家臣としての和智氏の存続は認められた。関ヶ原の合戦後の毛利氏の長州移封にともない、和智元郷も長州に移り、代々長州藩寄組に属した。た。

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■参考略系図