脇坂氏は近江国東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名をとって脇坂と称したものである。安明・安治は父子近江浅井氏に仕え、織田信長の六角氏攻めで戦死している。浅井氏滅亡のおり、15歳だった安治は当時木下藤吉郎と名乗っていた豊臣秀吉に拾われ家来となった。安治の名が史上有名になるのは、賤ケ岳七本槍の一人に数えられるようになってからである。小田原征伐にあたっては、水軍の将として伊豆下田城を攻めた。
脇坂氏といえば、貂(ten)の皮が有名。これは明智光秀の丹波攻略を秀吉が応援することになった時、安治に出陣の命令が下った。その頃丹波には、黒井城主で猛将赤井悪右衛門直正がいた。この赤井家に伝わっていた貂の皮を、直正に勝利した安治が手に入れたものである。
関ヶ原の合戦では最初西軍側であったが合戦中に東軍に転じ、佐和山城攻めに加わり、のち伊予大洲藩主となった。
三代将軍徳川家光の治政の頃、「寛永諸家系図伝」が編纂された。このおり、戦国時代に槍一本で成り上がった大名諸家があれこれとりつくろった家系や系図を提出するなかで、脇坂氏は安治の父安明から稿を起こし、その冒頭に「北南それとも知らずこの糸のゆかりばかりの末の藤原」 という和歌をしたためて提出したという。
■参考略系図
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