和賀氏
笹竜胆
(源頼朝落胤/武蔵七党横山党後裔?)


 和賀氏は、源頼朝の庶子忠頼から起こるとされる。すなわち頼朝が配流中の伊豆国にいたとき、伊東祐親の女との間に生まれたのが忠頼という。忠頼が三歳のとき、祐親は平氏を恐れて家臣の斎藤兄弟に命じて忠頼を棄てるように命じたが、斎藤兄弟は忠頼を相模国曽我に匿い、春若丸と称したという。建久八年に頼朝は春若丸を奥州南部和賀郡に封じ、多田式部大輔忠頼(頼忠とも)と改めさせた。代々「和賀ノ御所」と称せられたとされる。しかし、和賀氏の出自には異説も多く、頼朝子説はにわかには信じられない。多田行国の子行義が和賀を称したという説もある。
 武蔵七党のうちの横山党中条氏の一族から和賀氏が出ている。鎌倉時代の中条(刈田)義季は和田義盛の養子となって平姓を称した。そして、義季の子刈田義行が和賀を称した。和賀郡丹内山神社には応永二十二年(1415)から戦国期に至る数点の棟札があるが、その施主はすべて平姓の武士で、和賀氏の一族と考えられている。また明応四年(1492)、和賀氏の一族鬼柳義継は右京少進より伊賀守に昇進したが、そのときの「口宣案」に平義継とある。ところが江戸時代の史書や系譜類はすべて和賀氏を清和源氏多田流としている。十五世紀中に和賀氏が多田の名字を称した形跡はなく、平姓を源姓に改めるのは十六世紀にはいってからのことと考えられる。すなわち、源頼朝の落胤を開祖とする伝承におきかえられたのだろう。
 南北朝初期の和賀教義は、南朝方に属して建武二年(1334)陸奥国司北畠顕家から和賀郡新堰を宛て行われている。教義は庶流とおもわれ、嫡流は武家方に属していたようだ。
 室町時代から戦国期にかけての和賀氏は鬼柳・黒沢尻氏・須々孫氏らの一族をはじめ和賀郡内諸氏の統制に苦しんでいたことが「稗貫状」などにみられる。永亨七年の和賀・稗貫郡を中心に起こった戦乱は、和賀氏の一族の争いが発端だった。これは和賀惣領の小次郎と庶流の須々孫氏とのあいだの紛争が拡大したものだった。この争いは南部氏の調停で一段落している。そして、戦国期になると郡内の状況は一層複雑なものとなっていったようだ。
 天正十八年、和賀義忠は小田原に参陣せず、秀吉の奥州仕置によって葛西晴信・大崎義隆・稗貫秀忠らとともに諸領を没収、改易された。その後同年十月、大崎・葛西・稗貫・和賀氏ら没落大名の旧臣、農民らが蜂起し、秀吉の派遣武将木村吉清を討ち、勢いを振るった。このとき、和賀義忠も残党を率いて二子城を奪回した。しかし翌年、蒲生氏郷軍が侵攻し、一揆軍はやぶれ義忠は逃走の途次、領民に殺害されたという。
 和賀氏の一族で、小田原参陣して所領を安堵された出羽国本堂城主の本堂忠親がいる。また伊達氏に仕えたものもある。

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■参考略系図