ヘッダイメージ



和田氏
七 曜
(清和源氏満政流)
旗本家和田氏は"丸に木瓜に左巴"を使用


 清和源氏源満政の二男忠隆の孫惟家は近江国高島郡善積に拠り、善積氏を称した。惟家の子忠頼が近江和田氏の祖になるという。太郎左衛門氏家のとき近江国甲賀郡和田村に住し和田氏を称した。
 惟助は天文十五年、高槻城の荒木山城守との戦いで戦死。その子が惟政で、将軍足利義輝に仕えると伝えるが、中央の記録では義昭以後のことしか判明しない。
 永禄八年、三好三人衆・松永久秀らは義輝を殺害し、義輝の弟覚慶も奈良に幽閉されたが、細川藤孝ら幕府近習の手引きで脱出、甲賀の和田惟政の館へ逃れた。覚慶は還俗して義昭と名乗り、このとき惟政は義昭の直臣となった。その後の義昭の流寓に従い、義昭が信長の尽力で入京を果たしたとき、信長からその忠節を認められて、摂津半国を与えられ、芥川城主となった。
 惟政はキリスト教に帰依し、永禄八年入京した宣教師フロイスを庇護し、キリスト教の近畿普及に重要な役割を果たした。また同年三好三人衆が反撃してきたときには、明智光秀らとこれを撃退している。
 天正元年、義昭が信長と対立して京都に反旗を翻すや、惟政は義昭に属して、信長に抗した。信長は義昭を降伏させた返す刀で、荒木村重をして惟政を攻撃させ、摂津馬塚・糠塚等で惟政と村重は交戦、結局、惟政は敗れて処刑された。惟政の弟定利は信長に仕え、同定教は本能寺の変のとき、家康の甲賀越えを助け、のち召し抱えられている。
 惟政の子惟長は父敗死のとき伏見に逃げ、のち秀吉に仕えた。秀吉の紀州雑賀攻めに従い、敵城水攻めの任を負っていたが、堤が破れて大失敗し、秀吉の下から離れた。関ヶ原の役後になって、はじめて家康にまみえて、旧領和田を与えられて徳川旗本となった。

もっと読む



■参考略系図



戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ
家紋イメージ


人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
名字と家紋にリンク 名字と家紋にリンク

www.harimaya.com