若狭武田氏
割 菱 (清和源氏武田氏流) |
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甲斐源氏武田氏の支流で、武田信武の子氏信の四代に信繁が出、その子信賢が若狭武田氏の祖になったという。もっとも、信繁の子信栄が将軍足利義教の命によって永亨十二年五月、一色義貫を討伐した功により若狭国を賜り、その守護職を得たのがはじめともいわれている。普通、元明までの若狭武田氏を九代と数えているので、信栄を初代とするのが妥当かもしれない。しかし、その後の親子関係については系図によってまちまちである。
つまり、信栄・信賢の関係を
信繁−信栄┬信賢
└国信−元信 と、父子とする系図、
信繁┬信栄
├信賢
└国信−元信 と、兄弟とする系図がある。
ここでは、信栄と信賢は年代的なことも考えて兄弟説によっておく。
信賢は、永亨から嘉吉にかけて。一色義範および赤松満祐の討伐に戦功があり、応仁の乱にあたっては、東軍細川勝元に属して若狭を舞台に大活躍をしている。なお、武田氏が若狭に入部したのは嘉吉元年ともいわれ、若狭屋形の名で武田氏がよばるようになるのは信賢の時代からであり、若狭国に守護領国制を展開したのは、信賢の時代からとみて間違いない。
その跡を弟の国信が継ぎ、国信は御相伴衆に列している。次いで信親−元信と続き、元信の時代にはさらに丹後の一部をも自己の領国に組み込むことに成功し、次第に戦国大名として成長していった。
その後元光−信豊−義統−元明と続いたが、元明の代に滅亡している。すなわち義統の子元明は、織田信長の勢力が強大化するにつれ、その圧迫をうけ、天正八年ごろから信長に服属し、若狭の旧領の一部を安堵されていた。
ところが、天正十年の本能寺の変に際して、明智光秀に呼応して近江佐和山城攻めに加わっている。要するに、若狭国内のわずか三千石を信長から許されたにすぎなかった元明が、その旧領回復の絶好の機会とみて、戦功を挙げようとしたものであるが、結果的にこの行動はマイナスとなった。
つまり、本能寺の変から一ヵ月余が過ぎた七月、秀吉によって近江海津で誘殺されてしまったのである。元明の室は、京極高次の妹で、竜子の名で知られている。元明の死後、秀吉の側室になっている。のちの名松丸殿で広く知られている。
なお、若狭武田氏歴代の名前については、系図により若干の異同はあるが、元光を元言、元明を元次としている場合もあるが、同一人物とみなされる。
■参考略系図
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