氏家氏
石持ち地抜き三つ巴 (藤原北家宇都宮氏流) |
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氏家氏は、藤原北家宇都宮氏流といわれ、宇都宮朝綱の子公頼が下野国芳賀郡氏家郷を領し、氏家を名乗ったという。
もっとも『美濃国諸旧記』の「氏家のこと」では、越中の出身だとしている。すなわち「氏家の先祖は、越中の国の住人なり。中頃足利尾張守高綱の与力にして、氏家中務丞重国というて、延元のころ、北国の戦に武功あり。殊に延元二年閏七月二日、越前国足羽郡藤島の郷に於いて、新田義貞の首を取って、京都に差し上げける。尊氏将軍、其功を賞せられて、美濃国にて闕所の地を多数給わり、是より当国に来り、石津郡高須の庄に住せり」とみえる
その重国の後裔は累代美濃に居住し、守護および守護大名として発展しや土岐氏の被官として存続していったのである。
政幸およびその子幸国のころは石津郡の楽田城主であったが、幸国の子直元の代が、氏家氏の全盛期であった。
この直元は、出家して卜全と号しており、名前としてはこの卜全がよく知られている。斎藤義竜・竜興に仕え、その重臣となって美濃大垣城を守っていた。稲葉氏および安藤(伊賀)氏とともに美濃三人衆、あるいは西美濃三人衆などと呼ばれ、永禄七年(1564)、竜興に背いて織田信長に属している。
ところが、直元は元亀二年の伊勢長島一向一揆との戦いにおいて討死してしまい、子直重が代わって城主となった。
なお、その弟行広と行継はいずれも豊臣秀吉に属したが、関ヶ原で西軍に属して、所領を没収された。
■参考略系図
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