浦上氏
檜 扇
(紀氏流)


 浦上氏は平安時代中期に活躍した紀長谷雄の後裔といい、播磨国揖保郡浦上郷(浦上庄)がその発祥地と伝えられている代々、播磨国浦上庄に居住しており、浦上庄というのは『吾妻鏡』によれば熊野社領で、梶原景時が地頭職であったことがうかがわれる。
 元弘・建武の争乱にあたり、赤松則村(円心)が足利尊氏に属して戦功を挙げ、にわかに台頭してくるが、浦上氏はそのころから赤松氏の被官として現われてくるようになる。赤松氏の被官となるまでの浦上氏の系譜は諸種あって一定しない。紀行義が浦上左衛門佐を名乗り、その曾孫紀見掃部助の孫美作守則宗が赤松氏に属したとするもの、あるいは、七郎兵衛行景が赤松則祐に属し、以降、広景−行宗−貞宗−美作前司則宗と継承するものなどがある。
 いずれにしろ、浦上氏は播磨国浦上庄に住んで赤松氏の被官となり、その重臣として「当方御年寄」と呼ばれるまでになり、老臣筆頭の地位をかちとることになる。『太平記』にも、浦上七郎兵衛行景、同五郎左衛門景嗣の名が見えている。
 嘉吉の乱によって主家赤松氏が没落すると、浦上氏ら赤松氏の遺臣たちは赤松満祐の弟義雅の孫政則をもりたてて、主家再興に乗りだし、応仁の乱に当たっては東軍細川勝元の軍に加わっている。

●浦上氏の台頭-備前の戦国大名へ

 応仁の乱後、赤松政則が侍所の所司に任ぜられるや、浦上則宗が所司代となった。また政則が文明十三年(1481)山城国守護になると、則宗が守護代になっている。
 則宗の子宗助は備前国和気郡の三石城に居城を移し、次第に没落しつつある赤松氏に代わって勢力強大になっていった。永正十五年(1518)七月、守護赤松義村は宗助の子で守護代村宗を三石城に討とうとした。このとき、村宗方には備前・備中・美作三ケ国の国人衆が集まり、義村に戦いを挑んだ。翌永正十六年にも赤松義村は浦上氏を攻めたが城を落とすことはできなかった。
 そこで義村は、浦上方の美作粟井城と岩屋城を小寺則職に命じて襲撃させた。このとき、赤松軍を迎えうったのは浦上村宗の重臣宇喜多能家で、小寺則職の兵を飯岡で破ったという。その後、小寺則職は岩屋城を攻めて敗れ、村宗はこの勝ちに乗じて守護赤松義村を捕え、播磨の室津に幽閉し、ついに大永元年(1521)七月義村を暗殺した。村宗は義村の跡目としてわずか二歳の遺児才松丸を立て形ばかりの守護家を残したが、播磨・備前・美作三ケ国の実権を手中に収めることに成功した。
 この村宗の主家乗っ取りは、下剋上の典型としてよく知られているが、守護大名として実際の在地支配を離れた立場の者よりは、守護代クラスの、実際に農民支配にタッチしているものの方がまさっていたことを物語っている。
 その後村宗は、細川高国の依頼を受けて軍を起こし、転戦したが亨禄四年(1531)六月、天王寺の戦いで討死した。

●浦上氏、骨肉の内訌

 村宗には嫡子政宗と二子宗景があり、兄弟が跡を継いだ。浦上兄弟の武威は大いに振るい、播州室津に城を築いて領国を治めた。しかし、兄弟の間は不和であった。亨禄四年(1531)頃から、宗景は備前国天神山に城を築きはじめ、翌年室津城を出て天神山城に拠った。兄政宗には、父村宗の領を継承する力量はなかったようで、宗景としては、兄に従っていては将来が危ぶまれ、早く兄から遠ざかりたかったようである。なお、宗景の天神山移城は、永禄十二年(1569)足利・赤松の軍と戦って敗れ、勢力を失って備前一国を保ったときのことであるともいう。
 その後、天神山城を本城とした宗景は、しきりに美作・東備前に兵を繰り出し、その勢力はあなどりがたいものとなっていった。そして、兄政宗との対立は深刻となっていった。また宗景は赤松義祐などと戦い、次第に戦国大名として成長していった。
 やがて、因幡から出雲の尼子氏の勢力が南下するようになり、宗景はこれに鋭く反発した。天文二十二年(1553)尼子晴久が二万八千の兵をもて作州への侵攻を開始した。これに対し、宗景は備前・美作の兵一万五千をもって天神山を出で、高田表に陣をとり、尼子軍と数度にわたって戦った。しかし数に劣る浦上方は打ち負けて退いた。このとき、宗景の兵五千余騎は備えを乱さず控えていた。
 一族の賢能斎という者が宗景に今旗本をもって敵に取りかかれば、敵は乱れ必勝間違いなしとすすめたが、宗景はそれを入れず「旗本を堅固に備てあれば、先手はみな打ち負けるとも総崩れにはなるまじ」といい、備えを崩さなかったという。
 結局、尼子氏との合戦では、大勢の味方を討たれ美作の諸城を取られたが、いずれの日か勝利あるべし、尼子軍が引き上げれば、作州の城は取り返すべし、といいながら天神山に帰陣したという。この宗景の戦意は、美作の国人たちの心を捉えた。そして兄政宗に代わって、浦上氏の多くの家臣は宗景に従うようになり、「備前国中大抵は宗景にしたがひ敵する者すくなし」という有様となった。

●浦上氏の没落

 一方、政宗は播州室津に在城し、その子清宗のために黒田孝高の娘を娶ったが、その婚礼の席上に播磨州龍野の赤松上野守の襲撃を受けて父子ともに殺害された。そこで孝高の娘を二男忠宗に娶せて跡継ぎとした。ところが忠宗も宗景の命を受けた江見原某という者に殺害され、室津浦上氏は滅亡した。しかし、孝高の娘は男子一人を生み、その子は久松丸といい岡山の宇喜多直家に迎えられた。
 天正五年(1577)、直家は久松丸のために仇を奉じるとして兵を挙げ、天神山に宗景を攻めた。これに対して、天神山城方のなかに内応するものがあって、天正六年(1578)に至り、城は落ちた。こうして浦上宗景は、家臣にあたる宇喜多直家に背かれて備前を遂われてしまったのである。要するに下剋上によって主家赤松氏の領国を奪った浦上氏が、今度は家臣宇喜多氏の下剋上によってその地位を奪われたということになる。
 その後宗景は、毛利氏あるいは織田氏を利用して領土の回復を果たそうとしたが失敗し、黒田如水のもとで晩年を過ごしたという。

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■参考略系図 ・諸本の系図を合成したもの。

 



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