宇野氏

(村上源氏赤松氏流)


 戦国時代に播磨の長水山城に拠った宇野氏は、村上源氏の後裔と称し、山田入道頼範の子将則(頼則の弟という説もある)を祖とする。播磨国作用郡宇野荘に館を造り、その地名を名字としたのに始まる。
 宇野宗清・頼季・国頼の三兄弟は、東福寺の首座太朴玄素を開山に招請して円応寺を開基している。この太朴玄素は、赤松円心(則村)も招こうとした名僧であったが、その円心をして遠慮せしめる勢力を宇野氏は、当時有していたようだ。
 元弘・建武の争乱には、赤松氏に従って各地に戦い、播磨西八郡の守護代となっている。ちなみに東八郡は別所氏が守護代となっている。
 嘉吉元年、赤松満祐が将軍足利義教を自邸に招いて殺害するという事件があった。世にいう「嘉吉の乱」である。赤松氏は京都の邸を焼き払って領国に下向し、書写坂本城を本営に領国の武士に参集を求めた。西八郡の守護代、宇野頼則も激に応じ、赤松討伐軍と戦い、敗れて赤松氏らとともに城山城で自刃している。子の満利は、父の命によってひそかに逃れ、隠住していたが、長禄元年の吉野退治(神器奪回)に駆けつけて奮戦した。赤松政則が旧領を回復したとき、播磨宍粟郡内の地頭職となり、越前守を号し、長水山城に拠った。
 長水山城は、播磨国宍粟郡山崎にある、標高585メートルの長水山に築かれた要害であった。赤松則村の嫡男範資の子広瀬師頼が、赤松則祐によって封じられたのがはじめという(釜内氏が居城したいう説もある)。そして、広瀬満親・親茂父子のとき嘉吉の乱に遭遇し落城。文明元年にいたって、満利が再興し、以後、宇野氏の居城となった。
 満利の子越前守祐秀は、守護の赤松政則に従い、京都の洛北船岡合戦に戦功を立て、その領地は「宍粟郡・神西郡並びに但馬国八東・七美(ママ)・朝来五郡で高十二万石也」とある。
 赤松氏は政則が四十二歳の若さで急死、一族の七条氏から義村を迎えた。この頃から、守護代浦上氏の内紛が表面化、播磨の諸将は守護代浦上則宗方と一族の村国方の双方に分かれての戦さがつづいた。宇野氏は赤松 下野守らとともに、宗則を支持して戦い、村国方の栗栖中山城を攻略している。以後、赤松氏への浦上氏の下剋上などがあって、播磨には合戦がつづいたが、享禄四年(1531)に浦上村宗が滅亡し、赤松政村は勢力を挽回し、将軍義晴から偏諱を受けて晴政と名乗った。
 天文七年(1538)、山陰にあって勢力を培った尼子詮久が播磨に進入した。時の長水山城主宇野村頼や宍粟の武士たちは、いち早く詮久に協力してその所領を安堵されている。間もなく詮久は家臣を残して播磨から兵を返し、備後で毛利氏と戦っている。この尼子氏の播磨進入には、一向宗徒が詮久を応援し、赤松氏の播磨奪回戦にも尼子軍を助けてその阻止に動いている。
 同じころ、但馬よりは山名氏が宍粟郡に進入し、宇野村頼は子の政頼とともに山名軍を破り、尼子晴久(詮久)から軍功を賞されている。天文十二年には備前から浦上宗景が進入するなど、播磨の戦乱は収拾のめどがつかない泥沼へと落ち込んでいった。
 永禄のころになると、尼子氏を降した毛利元就の手が播磨に伸びてき、宇野氏は毛利氏の配下となる。このころが宇野氏の最盛期であった。
 天正四年、織田信長はその部将豊臣秀吉に中国地方の平定を命じた。当時播磨では赤松則房をはじめ別所長治・小寺政職・小寺孝高らは信長に服従を約していた。一方、赤松政範・赤松広英・宇野政頼・三木通秋らは毛利輝元と通じて信長への服従を拒否していた。秀吉の播磨平定は順調に進むかとみえたが、別所長治が秀吉にそむき、戦線は膠着状態にはいっていった。しかし、天正八年三木城が落城して、別所長治は自殺した。こうして秀吉の攻撃目標は長水山城に向けられることとなった。
 天正八年、秀吉はまず篠の丸城を攻め落とし、長水山城を力攻めをせずに完全包囲。そして、蜂須賀小六らの兵を残して三木氏攻略のために姫路に引き返している。籠城十数日、城兵の疲労をまっていた秀吉軍は攻撃を開始し、城塞は炎上し、長水山城は落城した。政頼・祐清らの城兵は美作の新免氏を頼って落ちていったが、千草で追撃軍と激戦の末、力尽きて一族自刃して滅亡した。
 長水城主の宇野政頼・祐清父子は、土地が僻地であったためか、飽くまで反抗の気勢を示し、結果滅亡した。 時代を見抜く目がなかった武将の、さもあるべき最後であったのかも知れない。

【参考資料:山崎町史/赤松円心・満祐/赤松氏・三木氏の文献と研究】

●播磨国宍粟群山崎の情報

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■参考略系図