長曽我部氏
七つ方喰
(泰氏流) |
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長曽我部氏は、泰氏の後裔を称していた。泰氏は古代の有力な渡来民族で、秦の始皇帝の子孫の弓月君が日本に渡来したのが、その始まりとされている。泰氏からは、京都・広隆寺を創建したことで知られる泰河勝などを出している。
長曽我部氏は、この泰河勝から出たとする伝承もあり、また、蘇我氏の部民宗我部の出とする説もある。いずれにせよ、初期の実態については不明なところが多い。
初代とされる能俊が土佐に入り、はじめて居住したのは宗部郷であった。その段階では間だ宗我部氏を称し、泰能俊から宗我部能俊になったわけである。土佐に移った時期については、延久から承久までの諸説があり、平安末期から鎌倉初期という以上はいえないのが現状である。
応仁の乱のころには守護細川氏が上洛続きで領国を顧みられなくなっている間隙をついて勢力を伸ばし、本山氏と長岡郡を両分し、土佐七族の雄に数えられるまでに成長した。
長宗我部文兼は、一条教房・房家父子を推戴し、その権威をバックとして力を伸ばしていった。しかし、永正五年、本山氏・吉良氏らが連合して岡豊城に兼序を攻めてこれを殺し、兼序の子国親は中村に逃れ、一条房家を頼るということがあった。
一条氏の力を背景に、国親は岡豊城に戻ることができた。その後天竺氏・山田氏・国沢氏といった豪族をつぎつぎに破り、弘治二年ころには土佐郡中央部にまで勢力を伸ばし、本山氏との雌雄を決する戦いが不可避となったのである。
本山氏との戦いに初陣を遂げ、しかも奮戦して長宗我部方を勝利に導いたのが国親の子元親であった。それ以来、本山氏を滅ぼし、安芸氏を倒し、ついに天正二年には旧恩ある一条兼定を豊後に追ってしまった。こうして土佐一国の統一に成功した元親は阿波・伊予・讃岐へ兵を進め、四国制覇の戦いを進めていった。
しかし、ついに天正十三年秀吉に敗れ、土佐一国を安堵された。長男信親は豊後戸次川の戦いで戦死し、その後を継いだ盛親が「関ヶ原の戦」で西軍に属し、長曽我部氏は没落してしまった。
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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