八条院領日向国富荘は、児湯郡県宮によって起こった。日下部氏によって開発されたという。伝承によれば十一世紀後半、宇佐社人土持氏が日下部氏久仲の娘を妻として、その所領を得たという。 土持氏は宇佐宮神官の出自をもつ田部氏を祖とし、宇佐神宮の日向進出によって成立した。土持宣綱は、日下部氏の正統盛平の養子として、庁執行職、在国司職のほか、広大な所領の譲渡を受け、宮崎平野中枢部の国富荘を掌握した。土持氏の所領、国富庄の庄郷は900町余に達し、日向国の支配地は1400余町に及んでいた。 南北朝期に足利尊氏方は国富庄と穆佐院の確保を考え、伊東祐持に都於郡の地を与えた。松尾城主土持宣栄は伊東氏に従って行動している。また尊氏は畠山義顕を穆佐院に入れ国富庄の宮方に対応し、伊東氏、土持氏はこの配下となっている。 やがて島津氏が北上して畠山氏を追放、さらに山東地方に進出した。土持氏は伊東氏に協力して防戦したが、島津氏の勢力に屈した。その後土持親佐は伊東氏と対立抗争し、明応年間(1492-1501)には門川城を攻略し、さらに進んで夏田に迫り、両氏は激突、攻防したが伊東氏に利あらず、親佐は勢に乗じて門川城を攻略した。 親佐の子親成は、土持氏累代のうちまれにみる文武両道にすぐれた名将と称せられたが、このころ薩摩島津氏と通じていた土持氏は、都於郡城主伊東義祐と組む大友宗麟と島津氏の対立の渦中におかれ、その圧迫に耐えず娘を人質に出して大友氏の幕下にあった。 天正期、島津氏によって大友氏・伊東氏の勢力が一掃され、土持親成は領土を維持した。やがて、大友宗麟が日向に伊東氏との勢力を回復するため、島津氏と決着をつけるべく南下し、その前哨戦として土持親成を攻めてきた。親成は援を島津義久に請い、大友氏はただちに松尾城を攻めた。 天正六年(1578)、本城は養子高信に守らせ、自らは僅少の兵を率いて近くの行籐山に陣を取って戦ったが衆寡敵せず、松尾城は陥落。親成は捕えられ、豊後の浦辺で切腹させられた。こうして、七百年余続いた土持氏は滅亡した。 ■参考略系図 |