卑賎の身から、一代にして天下統一を成し遂げた秀吉の生涯は、出世物語として有名である。その出自については、天下人となった段階でさまざまな作為がなされている。 のちになって、天皇落胤説まで自ら作り上げて宣伝しているが、実際は、尾張国愛知郡中村の百姓木下弥右衛門の子である。もっとも「太閣記」などの書が、家貧しく、秀吉自身人の奴隷にならねばならなかったという境遇に描いていることは、出世を印象づけるための創作であろう。 秀吉の父弥右衛門は、織田信長の父信秀の鉄砲足軽だったという。信秀の時代に鉄砲が尾張にまで普及していたことは考えられないので、鉄砲足軽というのはおかしい。しかし、ただの足軽ということであれば別である。 弥右衛門は合戦の傷がもとで、侍への道をあきらめ、百姓として土着したという。要するに半農半士、ふだんは農業経営を行い、合戦になると参加する階層だったのであろう。 木下という姓は、秀吉になってはじめてつけたという説もあるが、木下弥右衛門と諸書にみえることから、弥右衛門時代にすでに名乗っていたことになり、そうなると、水呑み百姓などではなく、小土豪クラスの有姓百姓であったことになる。しかし、秀吉が木下を名乗ったことで、その父弥右衛門も木下と呼ばれるようになってしまったのかも知れない。 弥右衛門と死別したとき、秀吉は七歳であった。その後継父として竹阿弥がはいってくる。竹阿弥は秀吉の弟小一郎秀長の父とされるが、秀長の年齢を考えると、弥右衛門が生きている間に生まれた計算になる。秀長の父に関しては再検討が必要なようだ。秀吉はこの弟秀長にずいぶん助けられている。秀長の補佐がなければ、いかに秀吉でも、あれだけの仕事はやりおおせなかったものと思われる。ときには分身として、ときには暴走しがちな秀吉のブレーキ役として、補佐役のありうべき姿を示している。かれの死後、秀吉が無謀な朝鮮への侵略戦争に向かって暴走しはじめたことは周知の事実である。ブレーキ役の秀長を失ったことが、豊臣政権の崩壊をはやめたことは間違いないようだ。 いずれにしても、秀吉は織田信長に仕え、その才覚をもって出世街道をひた走り、信長が明智光秀の手によって本能寺で横死したあとを受けて、光秀との山崎の合戦、柴田勝家との賤ケ岳の合戦を制し、さらに小牧長久手の戦いでは、織田信雄と徳川家康の連合軍と戦い、天下人へと駆け上がっていった。 秀吉は子に恵まれず、信長の四男秀勝をはじめ、姉瑞竜院の子秀次・秀勝らを養子としていたが、のちに側室淀殿から鶴松と秀頼の二人が生まれている。秀次は秀吉の長男鶴松が夭逝したことから、秀吉の後継者として関白となった。ところが秀頼が生まれると謀反の嫌疑をかけられて追放され、次いで自殺を命ぜられた。そして、一族はすべて処刑された。 秀吉は晩年、再三にわたって有力大名から誓書をとり、秀頼に対して異心のないことを誓わせたが、ついに関ヶ原の 合戦に西軍は敗れ、豊臣家はわずか摂津・河内・和泉の六十万石を領する一大名に転落し、徳川秀忠の娘千姫との 結婚により徳川家との同盟関係が保たれるかにみえたものの、慶長十九年(1614)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣で 徳川軍に攻められ、秀頼は母淀殿とともに大坂城で自殺。豊臣家ははかなく滅んでしまった。 |