豊島氏
丸に剣酢漿草
(桓武平氏良文流)
*家紋は後裔と称する旗本豊島家のもの


 桓武平氏、秩父二郎武常が武蔵国豊島郡に住んで、豊島氏を称したのにはじまる。武常は前九年の役で源頼義に従い、曽孫清光は源頼朝に従った。これより代々鎌倉幕府に仕えた。鎌倉末期に、泰村・景村兄弟が石神井城主をつとめた。一族に赤塚・志村・板橋・宮城氏などが出ている。
 南北朝内乱期には足利方に属し、のち山内上杉氏に属した。文明八年に関東管領執事職をめぐる長尾景春の乱が起こると、石神井・練馬両城主の豊島泰経と平塚城主泰明兄弟は景春にくみしたため、鎮圧軍大将大田道灌に攻められることになった。
 翌年、道灌は泰明の拠る平塚城を攻撃して引き揚げる途次、石神井・練馬両城から出兵した泰経軍と江古田・沼袋で遭遇、激戦となった。泰経はこの戦に大敗、石神井に逃げ帰って降伏。しかし、和議の条件である石神井城の破却を実行しなかったため、ふたたび道灌に攻められ、平塚城へ敗走した。しかし、さらに道灌の攻撃にあい、泰経は小机城に逃れ、三百年つづいた豊島氏は没落した。
 その子康保は小田原北条氏に仕え、子孫は徳川氏に仕えて旗本家として存続した。
 ところが石神井城伝説によると、泰経は白馬に金の鞍を置いてまたがり、三宝寺池に乗り入れて水中に没したという。また。娘照姫も父のあとを追って入水したという。現在、池畔にふたりを葬ったという殿塚・姫塚という塚がある。

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■参考略系図