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戸田氏
六つ星/九曜
(北家藤原氏流)


 北家藤原氏流で、正親町三条家より出るという。戦国時代、近江国を経て三河国に移り、吉田あたりから渥美半島の田原付近を占めていた。三河の有力な国衆で、松平氏とは同等の立場にあった。主流の系譜が確実なのは、明応年中(1492-1501)田原城を築いた戸田宗光からで、宗光の妻は信光の息女である。その孫政光は亨禄二年、松平清康に服属、その孫宜光は、天文十年二連木に移った。
 宜光とその子重貞は今川義元に従うが、桶狭間の戦後、今川氏の勢力が三河から後退すると、永禄七年(1564)離反して今川旗下の小笠原氏の拠る吉田城を攻め、功により松平元康から三千貫の地を与えられた。新知行地の分が本領分の倍以上もあり、家康は戸田氏の存在に重きをおいたのである。
 永禄十年、家康は戸田氏に松平氏の称号を名乗らせ、親族の久松俊勝の娘を義妹し、これと康長との婚約を約した。康長は天正十二年、家康の面前で元服し諱の一字を与えられた。戸田氏は徳川氏の同族的立場にされたのである。一族の戸田忠光は三河一向一揆で家康方に寝返り、一揆鎮圧に功があった。
   康長じは小牧・長久手の戦いで戦功があり、関東入国後、武蔵国幡羅郡深谷のうちで一万石を領した。慶長六年(1601)、一万石を加増されて上総国臼井城、同七年、下総国古河に移された。のち信濃国松本に転じ、すべて七万石の大名となった。
 戸田氏には美濃国大垣十万石を領した家がある。こちらは宗光の孫政光の弟の子氏輝を祖とするというが、信濃松本戸田家とのつながりについては系譜以外に確証はない。
 氏輝の孫一西は三河国吉田に生まれ、天正三年(1575)長篠の戦いでは家康に属して活躍した。天正十八年武蔵国で五千石を与えられ、慶長六年三万石となって近江国大津城に移り、翌年膳所に替えられた。以後、中堅どころの譜代大名として重きをなした。次の氏鉄は寛永十二年、美濃国大垣に移され、美濃七郡で十万石を領した。島原の乱にも出陣している。

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■参考略系図