種子島氏
三つ鱗
(桓武平氏清盛流/多禰直後裔?)


 種子島氏の祖は平清盛の孫行盛の子信基であるとしている。すなわち、行盛の子がその母とともに鎌倉に逃れていたところを北条時政に助けられ、その養子となり時信と名乗った。時政の執奏によって種子島に封ぜられ、深川院および財部院を兼領し、信基と改めたという。
 種子島氏の系譜では、この平行盛後裔説が信じられており、信基が北条時政の養子となってはじめて種子島氏を称するようになったということになっている。しかし、平行盛の子といい、北条時政の養子の件といい、それを裏付ける史料はない。俗説というべきものであろう。
 戦国時代、時堯のとき、種子島はにわかに注目されることになった。
 天文十二年、種子島の西村小浦というところにポルトガル船が漂着した。その乗組員を引見した島主種子島時尭は、乗組員から二挺の鉄砲を買い上げ、火薬の調合を家臣に学ばせた。これがいわゆる鉄砲伝来として知られる歴史的事件の顛末である。以来、ヨーロッパ渡来の火縄銃が「種子島銃」として広まった。
 時堯は種子島銃を島津貴久に献上し、貴久はさっそく天文十八年五月、加治木城攻めに当たってこの鉄砲を用いている。これが、わが国における鉄砲の実戦使用のはじめであった。
 こうして種子島銃は、戦国の新兵器としてまたたくまに有名になり、島津氏の三州統一はまさに鉄砲のお陰であったとさえいわれている。時堯はまた、近衛種久を介して火薬調合の秘法を伝授してほしいという将軍足利義輝の要請をいれて、これを将軍に伝えている。
 ところが、秘伝であるはずの鉄砲薬調合法が、義輝から上杉謙信につたえられていることを暗示する文書が「上杉家文書」の中におさめられている。これは、上杉家の力を背景として将軍家再興をめざす義輝が、謙信の歓心を買うために秘伝という禁を破ってつたえたものと解されている。
 その後、十六代久時のとき、秀吉によって種子島は島津氏に与えられ、久時は薩摩の知覧院に移されている。しかし、慶長四年(1599)、旧領種子島に復したが、すでにそれは独立した大名としてではなく、島津の重臣としてであった。

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■参考略系図



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家紋イメージ


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