田村氏
九曜/田村茗荷 (坂上田村麻呂後裔)
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田村氏の系図・家譜類は、田村氏の祖を坂上田村麿とし、その四世の孫古哲が田村氏をもって称号としたという。しかし、戦国期に田村地方を領した田村氏は平姓を称している。
鎌倉期から南北朝期にかけて、田村地方は藤原姓の田村荘司家が支配していたが、応永年間に没落し、田村庄の支配は平姓田村氏の手に移る。輝顕は、古哲から数えて十七代目とされているが、史料によって確認できる上限は直顕であり、輝顕以前の正確な系譜は不明である。
田村氏の発展の基礎を築いたのは、義顕である。田村氏は、当初田村荘司の居城であった守山城に拠ったといわれ、義顕の代に三春に居城を移したと伝えられる。
義顕の孫清顕は継嗣のないまま急死し、家臣たちは後継問題をめぐり、清顕の娘婿伊達政宗に頼ろうとする伊達派と、清顕後室の実家相馬氏を頼ろうとする相馬派とに分裂した。政宗は三春城に入り、清顕の後室相馬氏を船引に隠退させるとともに清顕の甥宗顕に田村氏を継がせた。田村領は実質的に伊達領となり、天正十八年、田村郡は豊臣秀吉から伊達領と認められたが、翌年、蒲生氏郷にあてがわれた。
宗顕は早逝し、田村氏は一時断絶するが、伊達政宗の三男が再興し、子孫は一関藩主として明治維新を迎えた。
■参考略系図
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