石見高橋氏
石見高橋氏
(紀氏の後裔/大宅氏族ともいう)
*家紋は大宅氏族のものを掲載。


 高橋氏は現在の島根県邑知郡阿須那に、藤掛・鷲影の両城を築いた、古くからの国人領主であった。
 本城系図などによれば、大納言紀舟守の後裔で、紀党の祖となった清主の五代の孫光延が駿河国高橋・油比、西山の領主となり、その子光盛が高橋氏を称したという。南北朝のころは光義が足利尊氏に属して、戦功を挙げ、感状を拝領している。正平五年、その子師光は佐波氏と戦い、功を挙げ邑知郡阿須那三千貫を受けている。そして藤掛に城を築き、そこを本拠とした。備中にも高橋氏があり、石見高橋氏と同族とみなされているが、こちらは大宅氏族を称している。いずれにしても、その始まりは不詳というしかない。
 戦国時代の当主は久光で、毛利氏の外戚となっている。すなわち、その女が元就の兄・興元に嫁いで、幸松丸を生んでいるのである。
 高橋氏の所領は三千貫だが、実際は「近隣を攻め取ること一万二千貫、兵力は子牛の家ほども集まる」といわれるほど強大で、久光が在世中は、兄興元の死後、幸松丸の後見をつとめた元就も、まったく発言権がなかった。
 永正十二年、備後国へ出陣していた久光の嫡子・元光が戦死、隠居していた久光も大永元年の夏、備後三次の比叡尾山城主・三吉隆亮を攻略中、占領した青屋加井妻城、油断していたところを討ち取られると、事情が変わった。
 久光は、嫡子・元光の死後、その跡を二男弘厚の子、興光に相続させていたが、亨禄二年、毛利元就によって松尾城の弘厚が攻め殺され、ついで、高橋家惣領となっていた興光も、居城の藤掛城を攻められ、ついには自刃した。こうして高橋氏の嫡流は毛利氏によって滅ぼされた。
 元就が弘厚を攻めたのは、弘厚が大内方から尼子方へ寝返ったためであった。また、興光を葬ったのは、興光が尼子経久の三男塩冶興久と結託して、毛利氏に敵対しようとしたからだという。しかし、『芸侯三家誌』『陰徳太平記』『吉田物語』などの軍記物と、『高田郡誌』『邑智町誌』などの地方史書に、このことが記載されているが、それぞれ記述に異同があり、いずれが真実なのかは分からない。共通しているのは、元就が得意の調略によって、高橋一族に内紛を起こさせ、自滅に追い込んだことである。
 こうして高橋氏を滅ぼしたあと、元就はその安芸・石見にまたがる広大な領地を手に入れて、石見・出雲進出への足掛りとした。これからみても、高橋氏は遅かれ早かれ、毛利氏によって排除される運命でしかなかったようだ。
 高橋氏嫡流滅亡後は、庶流家が毛利氏の部将・出羽氏に属し、関ヶ原合戦後の毛利氏国替えにあたって、大林郷に郷士として土着、江戸時代は大林の庄屋として続いたという。

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■参考略系図