多賀谷氏
木瓜に一文字
(桓武平氏野与党)


 武蔵国騎西庄多賀谷郷を発祥地とする武蔵七党の野与党の有賀頼基の二男光基を祖とする。南北朝の初めに下総の結城直光は武蔵国足立・埼玉郡で所領を与えられ、多賀谷氏はその家人となる。
 光義は、嘉吉元年の結城合戦において、落城寸前の結城城から結城氏朝の末子成朝を抱いて脱出。佐竹氏を頼って落ちのび、のちに結城家を再興した。享徳三年の享徳の大乱では、古河公方成氏の命で関東管領上杉憲忠を急襲し、憲忠の首級をあげている。その賞として、下妻庄内に三十三郷を与えられ、結城氏の家臣ながら関東諸将の会合に列席する地位を得た。
 その後、家重は結城氏に反して自立化を図り、天文三年結城政朝に、同十五年には北条氏康に攻められ、佐竹氏の援助を求めている。小田原の役では秀吉に従ったが、文禄の役では名護屋へ出仕せず、所領の大半を没収されている。また関ヶ原の合戦では石田三成に与して改易となり、下妻を追放された。

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■参考略系図





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由来ロゴ
家紋イメージ


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