丹波内藤氏
輪鼓に手鞠
(藤原氏秀郷流) |
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中世、丹波国土豪。藤原氏秀郷流を称していた。建武三年(1336)京都を撤退した足利尊氏は、丹波国の内藤左衛門尉の館に入っている。この内藤氏は奥丹波の国人で、細川氏の被官となり、その守護代として活躍している。『応仁記』『細川両家記』などに、丹波守護代として内藤氏の名前が出ている。
内藤元貞は宝徳四年ごろから文明十四年まで、細川勝元・政元の丹波守護代をつとめている。文明十一年政元の近臣一宮成宗が政元を擁して丹波に下り元貞を討とうとしたが、安富元家・一宮賢長らとこれを討っている。
元貞の嫡子内藤貞正は、文亀三年から細川政元の丹波守護代。永正五年、伊丹元扶らとともに細川高国に属し、細川澄元・三好之長らを京都に襲い近江に走らせている。これによって、高国政権下にも引き続いて丹波守護代となった。永正十七、八年ごろ、子国貞に守護代を譲って隠退している。
国貞は、はじめ細川高国に従ったが、大永六年、弟香西元盛を細川尹賢の讒言によって殺された波多野稙通・柳本賢治兄弟が丹波八上・鳴尾両城に拠って細川高国にそむいたとき、これに呼応して尹賢の率いる追討軍から離脱している。
天文二年、将軍足利義晴の赦免をうけて細川晴元に属し、丹波守護代に復している。このころから、丹波国八木城を居城として自立化した。三好長慶が細川晴元と対立したとき、長慶に属している。そして天文二十二年(1553)長慶の部将松永久秀らとともに晴元方の波多野晴通を攻めたが、逆に晴通を赴援した香西元成・三好政勝らに攻められ八木城は落城、国貞は戦死した。この内藤氏の家紋として『見聞諸家紋』に「輪鼓に手鞠」紋が記されている。
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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