菅沼氏
六つ釘抜 (清和源氏土岐氏流) |
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菅沼氏は室町時代のある時期に、美濃国より三河国額田郡菅沼郷に移り住したといわれる。土岐頼康三代の島田満貞の子木和田安逵の男土岐定直が、将軍足利義教の命によって、三河国の住人菅沼俊治を討ち、その諸領を与えられて菅沼を称したという。しかし、別説によると先の定直は資長といい、土岐光兼の二男とされる。すなわち、三河国野田の城主富永信資に養われ、後菅沼忠通の婿となり、菅沼を称したとされる。いずれにしてもその始まりは詳らかではない。
菅沼氏から家康の部将となり大名となったのは定盈である。定盈の祖父定則(貞行?貞俊?)は、はじめ今川氏に仕えたが、亨禄二年、家康の祖父清康の三河国の宇利城攻めに従軍して軍功があり、吉田・宇利の二郡を与えられた。こののち、東三河の国衆は定則の胆いりで清康に属した。
定盈は天文十一年(1542)野田に生まれ、家康と同年である。永禄四年家康に属し、本領の富田郷など二十一の郷村を安堵された。その領域は野田城を中心として、豊川流域から渥美湾口にわたっている。
永禄十一年、家康の出陣にさいして同族の菅沼忠久、鈴木重時を誘致し、その功労により遠江国の本領、新地数ヵ所において千五百貫文を与えられた。元亀二年(1571)、武田信玄の攻勢にあって東三河の国衆は信玄に従属したが、定盈は家康から離反することなく、信玄の大軍に対し抗戦した。その奮戦ぶりは敵将の信玄を感心させたという。
のち、高天神城攻め、小牧・長久手の戦いに軍功があり、関東入国後は上野国阿保で一万石を領した。子孫は四万石までになったが、改易となり、七千石を知行する旗本にとどまった。
■参考略系図
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