陶 氏
唐花菱
(周防大内氏支族)

 大内氏の一族。大内盛政の弟盛長が周防国佐波郡右田村に居住して右田氏を名乗り、弘俊のとき弟の弘賢が吉敷郡陶村に住んで陶を名字とした。
 弘賢の子弘政は陶村より周防国都濃郡富田に移り、若山城を築き、以来そこが陶氏累代の居城となった。陶氏はそこの地頭職としてあったが、次第に実力をつけ、有力在地領主として成長していった。弘政の名は、貞治四年の年号のある棟札にその名が見えることから、十四世紀の後半に活躍していたことが知られるが、すでに、南北朝争乱時代には大内氏の有力家臣であったことは明かである。BR>  弘政の子弘長は長門守護代に任じられ、さらに弘長の孫盛政の代には周防守護代となった。以来、周防守護代の職は陶氏が世襲することになり、大内氏家中における重臣の筆頭に位置づけられている。
 しかし、盛政の子弘政は戦死し、右田家を継いでいた弟の弘房が陶氏を継いだ。その子弘護は吉見信頼と刺し違えて死に、子が幼少だったため、弘護の弟弘詮が陶の名跡を継ぎ、弘護の子興房が成長して家督を継いでいる。
 興房は大内義興に仕えて数々の軍功を挙げ、義興死後は義隆に仕え、少弐氏の征討にも力を発揮している。天文八年に没したが、長男興昌はすでに戦死していたため、二男の隆房が十九歳の若さで家督を継ぐことになった。この隆房が、後年、大内義隆の猶子大友晴英の偏諱を得て、晴賢と改名した陶晴賢その人である。
 晴賢は父祖以来の周防守護代という大内家中における地位と、もちまえの軍略とによって、大内氏家臣団におけるぬきがたい勢力を作り上げたが、義隆が右筆の相良武任らを重く用いるようになって両者の間は不穏となり、ついに大内氏譜代の家臣杉重矩・内藤興盛らと謀って、天文十九年家臣を集めて武備を固め、富田若山城に引籠ってしまった。そして、翌二十年、義隆の姉の子で、大友宗麟の弟大友晴英を主君に迎えるように取り計らい、山口の大内邸を攻めたのである。義隆は長門の深川代寧寺で自刃し、大友晴英は、大内義長として山口に入った。
 こうして陶晴賢の下剋上は成功したが、大内時代の麾下であった毛利元就の成長めざましく、弘治元年ついに、元就と晴賢はぶつかることとなり、結果は厳島の戦いにおける晴賢勢の敗北となり、晴賢は自刃し、嫡子長房も自殺してはてたのである。なお、一族の隆康は最後まで大内方として活躍した。


■参考略系図