柴田氏は清和源氏より出た斯波氏の一族といわれている。越後国柴田城に居城したことから柴田氏を称するようになったというが確証はない。 そもそも柴田氏は勝家から名が知られるようになったわけで、それ以前についてはほとんど不明である。異説に勝家の父は土佐守を称していたと伝えられるが、明かではない。 勝家は尾張国愛知郡の出身で、織田信長の弟信行に仕えていたが、のち信長に仕えるようになった。すなわち、弘治二年(1556)、織田家の老臣林佐渡守信勝とはかり、信長をたおして信行を家督にしようとして失敗し、信長にゆるされてその家臣となったのである。 その後、信行が離反したときには、信長についてその信頼を得、各地の戦いにめざましい働きをし、信長の勢力が拡大されていくにつれて、その宿老としての立場を確固としたものにしていった。 天正三年九月、越前平定がなると北陸支配を任され、北庄城に入った。信長の宿老として、佐々成政・佐久間盛政・前田利家といった錚々たる武将を与力として従えていた。しかし、信長が本能寺の変に倒れたとき、越後の上杉景勝に対峙していたため、兵を引き返して明智光秀と戦うことができず、時日を費やすうちに秀吉に先を越されてしまった。 その後の織田家の家督を決める清洲会議で、秀吉と意見の対立をみ、勝家は信長の三男信孝を擁し、秀吉は信忠の子三法師を推した。 そして、天正十一年、賎ケ岳に秀吉と戦い、敗れて北の庄城で自刃した。その時、もと近江の浅井長政の室で 小谷の方と呼ばれていた信長の妹もともに天主閣で死んでいる。 ■参考略系図 |