真田氏
六文銭(滋野氏流) |
|
信濃の真田氏は、滋野姓海野氏流で、清和源氏を称する海野氏から出ているとされる。海野氏は代々信濃国小県郡海野郷に住んでいた。戦国時代に海野小太郎棟綱の子の弾正忠幸隆が小県郡真田庄松尾城に住し、はじめて真田氏を称したという。もっとも、一説には、海野棟綱の子が幸義で、これも小太郎を称し、その弟幸隆が小太郎の婿となって相続したともいわれ、このあたりの血統関係は必ずしも確実とはいえない。
いずれにしても真田氏の場合、幸隆以前については確実な名が伝えられておらず、もちろん事績として伝わるものもない。これは真田氏が近世になって大名として発展し、海野の嫡流と称したため、本当の先祖の方が抹殺されてしまったことによるものであろう。
真田幸隆をはじめとする海野一族は、武田信虎のときに小県郡から追われている。しかし、天文十四・五年、信虎の子信玄に属して旧領を回復している。以後、真田幸隆は、武田信玄に属して戦うことになる。武田氏の幾多の戦いに軍略を遺憾なく発揮し、武田家中における地歩を固めた。しかし、長篠の合戦では幸隆の嫡男信綱と次男の昌輝が戦死、家督は三男の昌幸が継いだ。
昌幸は信玄の近侍として足軽大将などを勤めていたといわれる。兄信綱・昌輝の存命中は武田の門葉武藤氏の名跡を継ぐことを許され、武藤喜兵衛尉と名乗った時期もあった。昌幸は天正七年(1579)、上州に兵を進め、沼田城の対岸にある名胡桃城を奪い、沼田城を中心とした領域支配に乗り出したのである。
しかし、その頃、すでに主家武田は衰退しつつあり、天正十年滅亡してしまった。武田氏滅亡後、昌幸は信長に属し、信長死後は家康に属したが、沼田城の明け渡しを命じられてこれを拒絶したため、家康とは絶つことになった。
そこで、秀吉に属し、本領を保ったもっとも、昌幸は、秀吉に属したとはいっても、実際の指揮系統では家康麾下の属されており、嫡男信之を家康ももとへ出仕させ、次男信繁を秀吉に出仕させるという、後年の一家二つに分かれて戦う要因ができていったのである。
関ヶ原の戦いには、長男信之を家康のもとに残して、次男信繁と西軍に属し、徳川秀忠の大軍を上田城に引き付け、関ヶ原の合戦に間に合わなくさせている。西軍が敗れ、信之の助命嘆願によって、昌幸・信繁は高野山に幽閉された。
その後、大阪の陣に際し信繁すなわち真田幸村は、秀頼の召しに応じ大阪城に入り、徳川軍をおおいに悩ましたことは有名だ。
家系は信之の子孫が十万石の大名として、その家名を伝えた。
■参考略系図
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
|
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
|