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佐久間氏
三浦三つ引両
(桓武平氏三浦氏流)


 佐久間氏は相模国の豪族三浦氏の支流で、安房国佐久間が本貫の地とされている。その子孫が尾張に移って、五器所と山崎城の二家に分かれた。信盛は山崎城の出身。
 信盛は、はやくから織田氏の家臣で、織田信秀の死後、いったん信長を見限って信行についた一人である。その後信長に転じて柴田勝家らとならぶ重臣となった。信長上洛後は、京都や近畿担当の奉行の一人となり、信盛署名の文書も各地に残している。
 その後石山本願寺攻撃のため、五年間がんばったが目だった線功はあげられなかった。天正八年、信長は全十七ケ条にわたって信盛父子の軟弱ぶりを厳しく問責した。まことに厳しい勤務評定で、明智光秀・柴田勝家らの線功ろ露骨に比較もされている。結局、信盛父子は高野山に追放され、信盛は十津川で没した。信栄(正勝とも)はのちに赦免され、信盛の三男がその後を継ぎ、徳川旗本に召し抱えられている。

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■参考略系図