雑賀鈴木氏
三つ足烏/八咫烏(やたがらす)
(穂積氏鈴木氏族)


 紀州雑賀郷七万石の棟梁、雑賀佐大夫孫市の率いる雑賀者たちは、奇妙な集団であった。
 かれらは熱狂的な一向宗徒であったが、合戦のあるたびに諸国の大名に買われて戦さをし、念仏をとなえながら人を殺し、その謝礼をもって衣食の道を立てていた。が、それだけなら戦国乱世には、ほかにも似た傭兵集団はあった。雑賀孫市を党主とするこの地侍集団が他と異なっていたのは、かれらが新兵器の技術集団であったことだ。その技術とは鉄砲である。
 鉄砲が日本に渡来して日も浅かった当時、その高価な火器は、どの国の大名も多くは持っていなかった。雑賀と根来軍団を除けば、あとはせいぜい織田ぐらいのものであった。その織田でさえ、射撃の精妙さでは、雑賀衆の足元にも及ばなかった。かれら雑賀衆は、鉄砲製造地の根来に近い関係上、鉄砲伝来当時から小銃操法に習熟し、その手腕は他の武将の鉄砲足軽に比べてずば抜けていた。
 孫市に従う火力集団は、戦国大名にもてはやされた。武将たちの誰もが、雑賀の鉄砲を求めた。事実、三千挺という驚異的な鉄砲で、戦国最強を謳われた武田騎馬軍団を一撃のもとに粉砕した織田信長でさえ、孫市と戦って十年のあいだ、戦うたびに敗れている。
 ところが、戦争請負という、殺しの技術を売ることのみに生きてきたはずの雑賀が、その家業をかなぐり捨てたのは、日頃から帰依する一向念仏宗の門跡、顕如上人からの「頼みまいらせる」の激文に接した瞬間からであった。孫市と雑賀衆は、本願寺の法灯を護るために石山本願寺へ駆けつけた。こうして、信長の天下統一をはばんで最後まで反抗した。この抵抗にシビレを切らした信長は、孫市の根拠地、紀州雑賀討滅の軍を起こした。孫市はこれを、雑賀の主城、弥勒山城に拠って迎え撃つが、ついに衆寡敵せず降伏した。しかし、その後も、孫市とかれに従う雑賀衆たちは、信長・秀吉と幾度か凄絶な戦いを重ねている。そして天正十三年、秀吉の大軍を、根来寺宗徒らと迎え撃ったが、ついに開城。佐大夫孫市は藤堂高虎に謀られて、紀州粉河で自刃したという。
 このように多彩な戦歴にも関わらず、孫市自身に関しての史料はきわめて少ない。その出自をたずねる手がかりとなる系図はおろか、生・没年さえも実際のところ不詳というしかないようだ。
 紀州退散後、佐大夫孫市の三男重朝は、のちに豊臣秀長に属し、さらに秀吉直勤となり鉄砲頭に抜擢された。小田原の陣には鉄砲隊を指揮し、朝鮮の役には名護屋に駐屯、一万石余を領したという。関ヶ原では西軍に属して伏見城攻めに参加、守将の鳥居元忠を討っている。しかし、戦後浪人、のちに水戸徳川家に仕えた。


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■参考略系図