相良氏
長剣梅鉢・六曜 (藤原南家為憲流)
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藤原南家乙麻呂流で、工藤氏・伊東氏と同族になる。周頼のとき遠江榛原郡相良庄に住み、相良氏を称するようになったという。その後、頼景・長頼父子が源頼朝に仕え、肥後国球磨郡の地頭職に補せられ人吉庄に住んだという。これが相良氏西遷の通説とされているものだ。
長頼の孫頼俊は蒙古襲来に当たって、菊池武房に従って軍功を挙げ、頼広・定頼・前頼の三代は南北朝時代、南朝に仕えていた。実長からは足利氏に仕え、累代球磨郡人吉城を居城として、薩摩の島津氏と姻戚関係を結びながら、その勢力を保った。
戦国期相良氏は分国法「相良氏法度」の制定によって知られる。ひと口に相良氏法度といっても、それは一人によって制定されたものではなく、三代にわたって制定されたものである。つまり、第一条から第七条までは為続が、第八条から二十条までは長毎によって、二十一条から四十一条までは晴広が制定したものである。
相良氏法度は、専制権力者としての戦国大名相良氏が独自に発布した分国法ではなく、発案者が衆議、すなわち家臣としての在地領主層であったということがきわめて特徴的なものだ。
戦国期相良氏の領国は肥後国の球磨・八代・蘆北の三郡で、晴広のあとは義陽が継いだ。義陽ははじめ頼房とも義頼とも称したが、将軍義輝から一字を与えられて、義陽とした。天正九年に肥後響原で大友軍と戦って敗死している。
長毎のとき、秀吉の島津征伐に従い、本領を安堵され、朝鮮侵略に際しては加藤清正に属して、各地に戦った。関ヶ原の戦には、はじめ西軍にあったが、秋月種長らと東軍に属し、本領安堵された。
■参考略系図
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