大関氏
朧 月/柊輪に立沢瀉 (武蔵七党丹党流)
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家伝では武蔵丹党の出で、武蔵国児玉郡大関村に住し、その地名を名字にしたというが、常陸国小栗御厨庄大関郷より起こるとの説もあり定かではない。下野への移住は大関家清が、その軍功で、足利尊氏より那須郡内に所領を賜わったためという。代々那須家に仕えて活躍する。那須七騎の一家に数えられる。
天文十一年、大関増次は大田原資清と石井沢で戦って敗死。資清は男子のいない大関家に自分の長男高増を入れる。以後両家は連合して行動する。
天文十八年、高増は那須高資に従って五月女坂合戦に参加、父資清と協力して宇都宮尚綱を敗死させている。永禄三年白河氏・葦名氏らの那須領侵入の際も、上那須地方の豪族達とともに防戦につとめる。がこの合戦に敗れたことを那須資胤に非難されたことから、主家と対立し、高増や大田原資清らは佐竹氏に内通。佐竹・宇都宮氏らと、資胤の烏山城を攻めている。
高増は慶長三年に没するが、子の晴増が関ヶ原の合戦に東軍について、江戸時代は一万八千石の小大名として存続した。
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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