大森氏
二つ巴
(藤原北家伊周流)


 駿河国駿河郡大森より起こり、藤原北家関白道兼の子内大臣伊周の子孫と伝えられる。親家の代に駿河大森に住んで大森氏を称した。古いこの辺の土豪であり、勢力を得ると藤原氏の子孫を称したのであろう。庶流として、大沼・河合・菅沼・神山・沓間などの諸氏を出している。また、箱根別当職も一族のものがつとめていた。
 応永二十三年、上杉禅秀の乱に際して頼顕は足利持氏の危難を救い、その功で小田原城を与えられた。それ以来、幕府・関東管領の関東経営にかなり重んじられたようで、幕府は氏頼に関東平定策を問い、その子実頼が隠遁しようとしたのを将軍足利義政は御教書を与えて止めたりした。
 氏頼は、加冠のとき鎌倉公方足利持氏から「氏」の一字を与えられ、氏頼と名乗った。父頼春は持氏に属して功があったが、氏頼は扇谷上杉氏に従って忠節を尽くした。長尾景春が、山内上杉氏の家宰に選ばれなかったことに端を発した、いわゆる長尾景春の乱の際には、扇谷上杉氏の家宰太田道灌の軍に属して各地に転戦している。
 文明九年には、武蔵江古田原、武蔵用土原、翌年には相模奥三保、下総堺根原、さらに翌十一年には下総臼井城でと、おのおのの戦いで活躍している。氏頼が主君定正に対して、道灌の謀殺を惜しみ、古河公方足利成氏を見捨てたことを諌めた書状は、「大森教訓状」などと呼ばれて世に名高い。
 応仁の乱後、関東管領家上杉氏の山内・扇谷両家の争いが激しくなると、氏頼は相模大庭城主三浦氏と協力して扇谷家を助け、相模を支配した。また氏頼は信仰心が篤く、総世寺など四ケ寺の開基となり、西安寺など二ケ寺を中興し、最乗寺の規模を拡張するなどしている。
 氏頼が明応三年に没すると、次子藤頼があとを嗣いだが、翌明応四年に北条早雲の策略によって、小田原城を奪わた。藤頼は、相模国大住郡真田城に逃れ抗戦したが、敗れて大森氏は没落した。
 その後、北条氏の家臣となった一族の庇護の下にあり、菊池、佐久間などと名字を変えている。そして頼照に至って、関ヶ原の戦に際し、養父佐久間勝之にともなわれて徳川秀忠に紹介され、旗本大森氏として家を再興した。

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■参考略系図