楡井氏は、清和源氏満仲流である。すなわち、満仲の子頼信の二男頼清が、信濃国更級郡村上郷に拠って村上氏を称した。頼清の兄頼義の六世の孫源頼朝が征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。また弟の頼季は、信濃国高井郡井上郷を領して井上氏の祖となった。この村上氏と井上氏と同系の族を含めて、信濃源氏と呼ばれている。
頼清の八世の孫村上修理亮基成が、信濃国高井郡楡井邑を領して、はじめて楡井氏を名乗った。
十四世紀、皇統が二つに分かれて対立抗争した南北朝の時代、日向国の志布志の松尾城に楡井頼仲がいた。頼仲は救仁院を領し、九州南朝方として華々しい活躍をする。『贈位諸賢伝』に、
「頼仲は信濃源氏に出ず、遠江守に任じ、大用と号し、日向志布志城主たり。興国三年征西将軍宮懐良親王薩摩谷山城に入り、将士に令旨を発す。頼仲之に応じ宮方の勢力振るう、正平三年日向の畠山直顕、薩摩の島津貞久、相応じて志布志を襲はんとす。頼仲大隅の肝付兼重と提携して隠然たる勢力を保つ。同六年貞久の宮方に転ずるや頼仲決起し、弟又四郎頼重は加瀬田城に拠る。然るに畠山直顕、禰寝清成らと共に諸城を陥れ、八月終に志布志城を陥す。翌七年再起せる頼仲・頼重一夜姶良城を屠り是に至る。尋で大いに禰寝氏と戦う。形勢利あらず後、日向胡麻崎城の拠れども、十二年正月、禰寝清増の来攻に会い。頼重は戦死し、頼仲は志布志に走り、二月四日自刃せり、年五十七」と記してある。
南北朝争乱期における地方の武士たちの行動は、前提として自身の領主権の確保と領地の拡張であり、一族の興隆を目的としている。
しかし、頼仲の場合は終始一貫して、南朝に尽くして十八年間に及んでいる。日向・大隅を舞台に孤軍奮闘し、己の節義に殉じたが、結果として一族の滅亡を招いた。
頼仲の楡井氏は信濃源氏であることは間違いないが、いかなる理由で山国の信州から、日向に移ったのかはよく分からない。名字の移動は、鎌倉・室町時代にかけて多く行われた。すなわち幕府の守護地頭政策によって、武士は組織的に全国の各地へ移動した。日向の楡井氏については、
1)木曽義仲の水島敗戦による信濃武士団の南九州移動説
2)近衛荘園の弁済使職説
3)日向守護北条守時の被官説
の三つがある、現在地元の歴史家によって真摯な研究が続けられているところだ。
頼仲自刃後、島津氏は楡井姓の名跡を惜しんで、楡井氏の縁戚にあたる加世田の別府氏に「仁礼」と賜名した。これが薩摩仁礼氏の始まりである。
余談ながら、信濃に残った楡井氏は仲共が越後守護上杉房定に随臣し、その後上杉謙信の旗下に属した。綱忠の代に上杉景勝に従って、会津から米沢に移った。以後代々米沢に住した。
■略系図
|
|