成田氏は、一説に藤原道長の後裔式部大夫任隆が武蔵国の国司として八幡羅郡に住み、任隆の子助広が成田太郎を称したのが始まりという。が、厳密なことはわかっていない。北武蔵の一隅の小さな在地領主から次第に成長していった成田氏であってみれば、系譜を藤原姓にするということも、後世の付会の説というべきであろう。武蔵七党横山党の庶流に成田氏があり、この子孫と考えるほうが自然なようだ。 いずれにしても、系図で一応はっきりしてくるのは助隆からで、助隆から成田氏を名乗ることで、これを普通には、成田氏の初代として考えられている。この助隆から親泰までは居城を上城に構えており、親泰が文明年間(1469-1487)に忍城に本拠を移したといわれる。 成田氏にあっては、居城を忍に構えた親泰のころからが戦国大名としての歴史であり、時代的には親泰−長泰−氏長の三代にあたっている。 長泰は、はじめ上杉憲政に属していたが、のちに上杉謙信に通じ、謙信が永禄三年(1560)、上杉憲政を擁して関東に出兵し、来属した関東の武士の氏名と陣幕の紋を書き上げた「関東幕注文」には、武州衆の統率者として、成田下総守すなわち長泰の名がみえ、かなり重視されていたことが知られる。 しかし、長泰は『相州兵乱記』によると、長泰の謙信に対する礼の作法が無礼であるとして謙信に扇で烏帽子を打ち落とされたのに腹を立て、謙信を離れ、後北条氏に味方するようになったという。事の真相はともかくとして、以後、成田氏が後北条氏に属するようになったのは事実である。 長泰は永禄九年、家督を嫡男の氏長をさしおいて、次男の泰親に譲ろうとしたことから、長泰・氏長の争いとなった。しかしこのときは泰親が身を引いたため、内訌には至らず、氏長の家督相続ということになったのである。 成田氏長および忍城を有名にしたのは、天正十八年の小田原征伐においてであった。秀吉は本城である小田原城を包囲すると同時に、関東各地にちらばる支城を各個撃破していく戦術をとった。城主氏長は小田原本城に詰めたが、留守を守った一族・家臣がよく防ぎ、石田三成の水攻めにも屈せず、かえって三成方のほうに堤防が切れて死傷者が出るというありさまであった。小田原開城後、氏長の使者が城兵に開城を命じたため、開城となったのである。 その後、氏長は下野烏山三万七千石を与えられた。小田原に最後までいたものがこれだけの知行を得たのは、氏長の妹とも娘ともいう甲斐殿が秀吉の側室になたためと噂されたという。 ●武蔵七党横山氏の系図を見る ■参考略系図 |