長野氏
三つ引両 (藤原南家流工藤氏族) |
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長野氏は、曽我兄弟に殺された工藤祐経の三男祐長が、伊勢平氏残党討伐のため、長野の地頭職となり、安濃・奄芸二郡を給わり、その子祐政が長野に来住して長野氏を名乗ったのがはじまりとされる。
南北朝時代には、伊勢国司北畠氏が南朝方の中核となって活躍しているなか、祐房は、足利尊氏に仕え、安濃・奄芸両郡を長野工藤の同族連合の国人で固め、時には一族が分かれて南北両朝にくみして戦ったこともあったが、おおむね北朝方について行動した。
応仁の乱およびそれに続く文明の乱中、北畠氏も長野氏も下剋上の風潮のなかで、自己の勢力の保持・拡張のため、戦いと同盟、政略結婚など、複雑な対応を迫られている。長野氏は、この間を利用して美濃の時成頼や斎藤利国らと結んで、北伊勢に進出して桑名にまで至った。
天文年間、北畠氏は長野氏を抑えようとして長野氏を襲い、葉野で戦い激戦となって、長野方の大将分部与三衛門が戦死するなど、一志郡内で両氏の攻防が続いた。その後永禄元年講和の議が整い、藤定に嗣なきをもって北畠具教の二男具藤を長野氏の養嗣とし、長年の両氏の抗争に終止符を打ったが、長野氏は北畠氏の幕下に入ったといえよう。
永禄十一年、中伊勢に侵攻した織田信長に対して和戦両論に分かれたが、結局、織田信長の弟信包を長野氏の嗣とすることを申し入れた。信包は長野城を出て、安濃津・上野に本拠を置き、長野一族は織田氏の幕下に入った。中世を通じて中伊勢地方に根を張り、有力国人として活躍した長野氏も、北畠氏との抗争の間、同族連合の古い形のままで戦国大名として成長しえず、織田氏に屈したのであった。
■参考略系図
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