水谷氏
三つ巴
(清和源氏村上氏族)


 近藤太能成の子能直が源頼朝の奥州征伐に従って功をあげ、その賞として田村庄の地頭職を与えられた。弟仲教が所領を譲られて、田村氏を称した。仲教の孫重輔の時、近江犬上郡水谷郷を与えられ水谷を称し、その子清有は、陸奥行方郡猿田七郷を領した。
 正平六年(1351)貞有のとき、観応の擾乱で足利直義に従い、尊氏によって所領を収公される。その子広有は、小峰朝常に従って斯波家兼と戦って戦死。その孫氏俊は下総に逃れて結城氏を頼り、下野国守護代となった。嘉吉元年(1441)の結城合戦で、時氏は籠城して戦死。関東管領上杉清方は時氏の遺子を探して家督を相続させた。勝氏といい、結城成朝の結城復帰に尽力した。長亨元年には下館城を築いて移り、伊佐郡一帯を支配した。
 永正末年に、結城政朝が宇都宮忠綱と対戦した折、治持は先陣を務め、賞として中村六郷を与えられている。その後、結城政勝に従って下妻の多賀谷氏を攻め、また小田氏治と海老島に戦って功を挙げている。その子正村も古河晴氏に従って、武蔵吉見城主の大串武成らを討った。正村は天文十四年に下館城を弟の勝俊に譲って、自らは久下田に新城を築いて移った。
 天正四年、信長・家康と友好を結び、本能寺の変後は徳川氏に従って甲斐に出張する。慶長三年正村は没し、 家督は弟勝俊が継ぎ豊臣氏に従って本領を安堵された。関ヶ原の合戦後、結城氏が越前に移り、勝隆は下館で 五万石の大名となった。

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■参考略系図