三好氏
釘抜・三階菱に釘抜
(清和源氏小笠原氏流)

 三好氏は阿波の大族で清和源氏小笠原氏の一族。鎌倉時代のはじめに小笠原長清の子長経が阿波に封ぜられて三好郡に居住し、三好氏を称するようになったのがはじまりといわれる。
 三好氏は、室町時代のはじめ、四国の守護が細川氏であった関係から細川氏の被官となり、次第に細川家中における地位を確立していった。
 細川氏の家宰であった三好氏が畿内に進出するきっかけとなったのは応仁の乱で、乱にあたり、細川成之が、細川の宗家である細川勝元を支援するため京都に出陣したときで、その時、三好之長が従軍したことである。これが京都・摂津方面で、以後約百年にわたり之長・長秀・元長・長慶・義継の五代にわたって活躍するはじめとなった。
 長慶の父元長は、はじめ細川晴元を擁していたが、晴元は三好政長と組んで元長を殺し、長慶にとっての不遇時代が始まったのだが、ついに天文十一年(1542)、仇敵木沢政を倒し、同十八年には叔父の政長をも討ち、主君細川晴元を近江に追放したのである。  こうして長慶は、天文二十二年(1553)、近江に流浪していた足利義輝を京都に迎え、細川高国の養子氏綱を傀儡管領にすえて、幕府の実権を握ってしまった。一介の家宰から、幕府を思いのままに動かす実力者にのし上がった。
 しかし、長慶はあくまで細川氏の被官にすぎなかった。そこで彼は将軍の直臣の名目を得ようとして御供衆の列に加わった。さらに、永禄三年(1560)には将軍家の御相伴衆に列し、あくまで将軍を奉じて政権を握るという従来の室町幕府の伝統的なやり方を引き継いだ。
 長慶には三人の弟がおり、すぐの弟は之康、実休と号した武将。次ぎは冬康で、これは安宅氏を継ぎ、その次は一存といって、これは十河氏を継いだ。この三人の弟が本拠である阿波・讃岐・淡路といった国を固め、長慶の中央政界での活躍を支えていたのである。とりわけ安宅氏のように、淡路から大阪湾にかけての水軍を握ったことは画期的で、その他、堺商人と結んで財政的な基礎を固めていたことも特筆される。
 しかし、次第に家臣の松永久秀に実権を奪われ、長慶の子義興が死ぬと、弟一存の遺児義継を養子としたが、実子を失って気落ちしたまま病没してしまった。




■参考略系図



戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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家紋イメージ


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