三浦氏
三浦三つ引両
(桓武平氏三浦氏流)


 三浦氏は関東の豪族三浦義明の後裔と伝えられる。義明・義澄が源頼朝の鎌倉幕府創設にあたって尽力したため、相模で最大の勢力を形成するが、のちに北条氏と対立、宝治合戦で嫡流は滅亡した。合戦後一族の佐原氏系の盛時によって名跡が再興された。
 南北朝期には足利尊氏に属し、高通が相模守護となる。観応の擾乱では直義に蔵したため守護を罷免されるが、上杉氏の復活とともに、高通も相模守護に返り咲いた。その後も、高連・高朝と守護職を継承したが、上杉禅秀の乱後は罷免されたようだ。時高は上杉氏に属し、鎌倉公方足利持氏の滅亡に一役買っている。
 戦国期上杉氏から入って三浦氏を継いだ三浦道寸は長子義意を相模三浦半島の新井城主とし、自らは岡崎城主として両国の拡大を図った。一方小田原城主大森氏を追って小田原城を奪った北条早雲は、相模の統一を目指し、岡崎城主の道寸を追放した。敗れた道寸は、逗子市の住吉城に移って交戦したが、弟の城主道香が戦死、やむなく新井城へ後退していった。
 永正十三年、準備万端を整えた北条早雲は新井城を急襲した。道寸は万策尽き、落ちんと思う人あらば落ちよ、死せんと思う人は討ち死にして後世に名おとどめよ、とばかりに開門して切って出た。しかし、多勢に無勢、しだいに北条軍に切りたてられ、主従ともに帰城し思い思いに切腹した。道寸も義意のすすめで、辞世の和歌を残して自刃した。
 八十五人力といわれた、その子義意は二十一歳の若さで命を断ったが、その首は死なず、目は逆さまに裂け、…三年間も死ななかったという。幾多の伝説を残して三浦氏は北条氏の手によって滅亡した。

もっと読む


■参考略系図