三刀屋氏
梶の葉
(清和源氏満快流諏訪部氏)


 三刀屋氏は清和源氏満快流の後裔である。満快の曾孫為公が信濃守に任じられて信濃に下向、信濃源氏の祖となった。その子為扶は伊那氏を称し、その一族から中津乗・林・室賀などの諸氏が出ている。為扶の子室賀二郎盛扶の子幸扶は諏訪部氏を称し、その子孫が出雲国飯石郡の三刀屋郷の地頭職を得て出雲に下向して三刀屋氏がうまれた。
 南北朝、室町期から戦国時代にかけての三刀屋氏の事跡は不詳な点が多いが、「三刀屋文書」として伝わる古文書は、数少ない山陰地方の中世文書として、きわめて貴重なものである。
 戦国時代の後期、尼子氏配下の出雲十旗の三として三刀屋久祐(久扶)が出ている。久祐は対馬守某の子に生まれ、三刀屋城主として尼子晴久に仕え、天文九年の安芸毛利氏攻めに従軍、その敗戦後大内氏に属し、同十二年の大内義隆の出雲侵略失敗により尼子氏に帰順した。弘治三年、尼子晴久から久の遍諱を受けている。
 しかし、永禄五年(1562)赤穴氏の取りなしによって毛利氏に属し、同年十二月毛利方として、八畔峠で熊野入道西阿を破っている。白鹿白・富田城攻めにも毛利方として参戦した。天正三年(1575)、吉川元春・元長父子が出雲に出陣した時には、平田に出頭して毛利輝元への忠誠を誓約する起誓文を提出している。また、毛利氏からの軍事動員を忌避することもあり、なお自律的な性格を有していた。また久扶は天正元年には、天台座主補任問題に尽力し、正親町天皇より毛氈鞍襲弓袋などの使用を許可されている。
 天正十六年に上洛した際、徳川家康と面会したため毛利輝元から疑われ、出雲から追放された。
 戦国時代、出雲尼子氏の家臣に三刀屋宗忠がいる。こちらは晴久・義久・勝久の三代に仕え、御手廻衆で一万石余を領した。出雲飯石郡の有力武士三沢氏の一族といわれ、先の三刀屋氏と系譜は違う。
 毛利氏が尼子氏の富田城を開城させたとき上洛。尼子再興を企てた尼子勝久の近習となり、永禄十二年、出雲に侵入し、元亀元年六月、毛利方の宍道左馬助の佐陀勝間城を攻撃中に戦死した。

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■参考略系図