三隅氏
庵に久の字
(藤原氏族御神本氏流) |
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石見国那賀郡三隅郷を本拠とし、西石見に勢力をもっていた中世の在地豪族。系図によれば石見国御神本氏の一族で、御神本兼高は同国益田に住して益田氏を称したが、その二男兼信は同国三隅・木束・長安の地頭職を得て、三隅高城に拠って三隅氏を称したという。三隅氏からは、永安・竹彦・井村氏などが分流している。
その曽孫兼連は元弘三年(1333)、後醍醐天皇が伯耆国船上山において兵をつのるや、一族をひきいてこれに参じ、同年六月には天皇に従って京に入っている。以後、南北朝の内乱期に御神本一族のうち益田氏や永安氏は足利方であったが、三隅氏は南朝方として石見の中心勢力として活躍した。
建武三年以降、足利氏に関係の深い上野頼兼が石見守護となったが、翌四年頼兼は大軍を率いて三隅高城を攻めている。観応元年には、高師直が石見守護となり、やはり大軍を送り込んで三隅高城を攻撃している。
正平十年には、南朝かたの将となった足利直冬とともに京都に入ったが、足利尊氏の軍勢と戦って戦死した。兼連の長子兼知も正平七年に山城国男山において討死している。
その後も代々、三隅高城に拠って西石見に勢力をはっていたが、元亀元年(1570)毛利氏の攻撃を受けて、三隅高城は落城し、高繁・国貞の兄弟は討死し、三隅氏は滅亡した。
■参考略系図
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