皆川氏
二つ巴 (秀郷流藤原氏) |
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秀郷流藤原姓といわれ、小山氏・結城氏らと同族である。小山政光の曽孫宗員に始まるとみられている。宗員が下野国都賀郡皆川に居住、土地の名をとって皆川と名乗ったものとみなされる。しかし、宗員に始まる皆川氏は、北条高時に背いて一時断絶し、一族の長沼氏が宗家を継いだという。その意味では、戦国大名皆川広照を生んだ皆川氏は中興後の皆川氏ということになり、普通、氏秀の子宗成を皆川氏の初代と数えているのである。
皆川氏がはっきりと歴史の舞台に登場するようになるのは、この宗成あたりからで、それ以前の事積についてはほとんど分からないというのが実情である。
宗成は大永三年(1523)、都賀郡で宇都宮忠綱と戦って戦死、子の成勝が後を継いだ。この成勝時代が皆川氏における安定期であったようだ。三代俊宗は下総で討死し、その後を広照が継いだ。
広照のときが、戦国大名としての全盛時代であった。彼は天正九年十一月に、織田信長に名馬を贈るなど、中央に対しても目を向けており、時勢を的確につかんでいたようだ。信長死後は秀吉に通じ、天正十三年のは常陸の佐竹氏の援助を得て北条氏政と戦っている。しかし、関八州を席巻した北条氏の勢力には抗しかね、ついには降っている。
小田原征伐のときには、小田原城の竹ノ下口を守っていたが、早々と秀吉に投降し、長沼城三万五千石を安堵されている。関ヶ原の戦いでは東軍に属して、佐竹氏の牽制に当たり、信州川中島に封じられた家康の子忠輝の傳役として信州飯山城代となった。
■参考略系図
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