松永氏
蔦
(出自不詳) |
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松永氏の出自には諸説あって確証はないが、『陰徳太平記』のいう摂津五百住説や高槻城主入江氏との姻戚関係から考えて、畿内の出身であることはほぼ疑いない。
松永久秀は若年から三好長慶の右筆となって活動していたと推測され、天文十一年(1542)には長慶の部将として南山城に進駐している。弟長頼も軍事的才幹をもって長慶に仕え、天文十八年(1549)六月、摂津江口の合戦で敗れた細川晴元政権が崩壊したのに伴い、京畿方面で三好長慶の進出が目立ったが、長頼は長慶の被官として幕府領の山科七郷を押領した。翌十九年には、長慶が将軍足利義輝と戦った際には、醍醐から迂回して近江大津、松本に進撃して集落を焼き払い、義輝を坂本へ退却させた。長頼は、兄久秀よりもはやく独立の部将として活動していた。
同二十年七月の晴元との戦いでは、久秀とともに相国寺に拠る三好政勝らの軍に猛攻を加え、丹波へと敗走あせた。
天文二十二年、久秀は、長慶が将軍足利義輝を京都から追放すると、伊勢貞孝らと京都の庶政を採決している。一方、弟長頼は同年九月、丹波方面の司令官となり八上城を包囲。この攻撃中に岳父の内藤国貞が晴元の攻撃で八木城に敗死すると、残兵を糾号して一日で八木城を奪回、この軍略によって一躍長慶の重臣にのしあがり、丹波一国をあずけられた。
以後、丹波八木城主として守護代内藤氏の名跡を継承する地位にあった。後年の久秀の台頭は、実のところ弟長頼の軍略と威勢に多くを負っていたといえよう。その後、口丹波と奥丹波を領域に収めて、十余年にわたって同地域の安定を保ち、京都の儒者清原宣賢より「丹州大守」と呼ばれた。
ところで久秀は、弘治二年(1556)、長慶から摂津滝山城を預けられ、初めて城持大名とった。
永禄二年(1559)、長慶から大和方面の軍事を委任されて、信貴山城主となり、翌年には大和をほぼ制圧、信貴山城に天守閣を造営している。この間、御供衆、相伴衆に列して漸く長慶政権屈指の地位に上がった。長慶の没後、永禄八年五月、三好三人衆と共謀して将軍義輝を暗殺して足利義栄を擁立した。
このような状況下、長頼の支配する丹波も動揺し、永禄八年八月赤井直正の拠る丹波黒井城を包囲したが、直正の逆襲によって長頼は戦死。松永軍は丹波氷上郡内で崩壊、丹波は三好氏の分国を離脱した。有名なキリシタン大名内藤如安は長頼の遺子である。
久秀は新将軍擁立後、急激に三好三人衆と対立、永禄十年にはその内訌で東大寺大仏殿を炎上させて、筒井順慶ら国内土豪は彼から離反していった。こうして、弱体化した三好政権は、翌年九月、織田信長の軍事力の前に崩壊。久秀は信長に款を通じて大和一国を安堵されたが、将軍義昭が信長と不和になるや信長に叛き、天正元年末、ふたたび信長に降伏して大和を安堵された。
同四年、石山本願寺の挙兵に応じてまたもや信長に反旗をかかげ、信貴山に籠城。翌年十月織田信忠の包囲の前にあえなく陥落。名物の平蜘蛛の釜を砕いて自殺した。連歌師貞徳は久秀の孫にあたるいう。
■参考略系図
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