熊谷氏
寓生に鳩 (桓武平氏貞盛流北条氏族) |
|
武蔵国豪族。桓武平氏北条直方の後裔、熊谷直貞がはじめて武蔵国大里郡熊谷を領し、熊谷と称した。
その子直正は近江くに浅井郡塩津郷に住んで、近江熊谷氏の惣領として豪族化した。この直正の弟が一の谷の合戦で平敦盛を討った直実である。直実は石橋山の合戦では源頼朝を攻めたが、のち源氏に従い平家追討に功をたてて、本領を安堵された。しかし、建久三年久下直光との所領争いに敗れて出家し、所領の熊谷郷をその子直家に譲った。直家は頼朝の奥州征伐に功があり、陸奥国本吉郡に所領を賜わり、その子直宗は下向して赤岩館に住した。のち葛西氏に従ったが、葛西氏の滅亡後、土着し、この地方の大肝煎となった。
また武蔵の熊谷郷に住んだ、直国は承久の乱の時戦死し、その功によりその子直時は新たに安芸国三入庄の地頭職を与えられ、その子孫は法然が直実に授けた「迎接蔓茶羅」を携えて、弘安以後三入庄に落ち着いた。
戦国期の熊谷元直は、永正十四年十月の有田中井手合戦において安芸守護武田元繁に応じて先陣をつとめ、毛利元就に対した。この合戦は、実に毛利元就の初陣であって、武田軍四千騎に対し毛利方一千騎というものだった。しかし、元就の猛攻にあって熊谷元直はあえなく戦死、主将の元繁も流れ矢にあたって、有田川に転落。元就麾下の井上光政に討ちとられた。
その子信直は天文のころには毛利元就に属し、その有力な部将として各地に転戦。その娘は元就の二男吉川元春に嫁している。
■参考略系図
|