九鬼氏
七 曜 (熊野別当流) |
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"くき"という字は、元来、峰とか崖の意で、岩山・谷などを指すという。また"くき"のきは、柵の意で、城戸構えのあったところからきたともいわれる。
九鬼氏というのは、熊野本宮大社の神官の子孫で、紀伊の名族として知られている。それとは別に、熊野別当の九鬼隆真が紀伊牟婁郡九鬼浦に拠って、子孫が繁栄して一族をなしたものがある。さらにこの九鬼隆真の子の隆良が志摩国波切村に移住して、志摩の九鬼氏ができた。
九鬼氏は熊野八庄司の一つといわれ、八庄司のひとつ新宮氏であろうとされるが、熊野三山の別当家のどれかの支族であろう。
志摩九鬼氏は舟を操ることに長け、戦国期には九鬼水軍として重視された。戦国時代に頭角を現わしたのは、九鬼嘉隆だ。嘉隆ははじめ伊勢国司北畠氏に仕え、北畠氏没落後織田信長に属した。永禄十二年、信長が伊勢大河内城を攻めた時、志摩に移り、鳥羽に在城した。すでに織田方の船手の大将として重視されていたのである。
九鬼氏がその地位を不動のものにしたのは、天正六年の石山本願寺攻めで、巨船日本丸を浮かべて、一揆勢の海路による支援を遮断し、毛利水軍を破ったことによる。
信長死後は秀吉に属し、特に朝鮮出兵に当たっては水軍の先鋒となって功を挙げ、五万五千石の大名となった。
子守隆が家督を継いだのは慶長二年のことで、嘉隆が人と争い、その争いに対する家康の判決を不満として隠居したともいわれている。そのことがあったためか、関ヶ原の戦いに際し、嘉隆は西軍に属した。
しかし、守隆の方は東軍に属し、しかも、西軍の桑名城を守る氏家純利を破って、その首級を家康のもとに届けさせたが、これが東軍で最初の勝報ということになり、その功によって鳥羽城は安堵された。ところが、嘉隆助命の報が遅れたため、嘉隆は自殺した。
近世には、嘉隆の孫久隆が摂津三田に所領をあてがわれ、また久隆の叔父隆季が丹波国綾部を与えられ、それぞれ三田藩、綾部藩の祖となり明治まで続いた。
■参考略系図
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